教授 ダニエル・ギルバート氏の『明日の幸せを科学する』を通して、“脳のメカニズム”をご紹介していきます。
今回はその13回目です。
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『明日の幸せを科学する』の主題-人間は未来をどう想像しているのか
未来の自分を幸せにしたいと思いながら、幸せになれていないのは?
私達は常に「どうすれば幸せになれるのか?」と考え、毎日、自分が幸せになるための選択をしています。
ところが、幸せになれるどころか、
「なんでこんなことをしてしまったのか」
「なんでこんな約束をしてしまったのか」
と、選択したことを後悔してしまうことさえあるのではないでしょうか。
なぜそうなるのかについて、
「私達が未来を想像するとき、誰もが規則正しく 想像に関する共通した誤りを犯しているから」
と説明されています。
では、その“未来に関する共通した誤り”とは何なのでしょうか?
それについて解説されているのが『明日の幸せを科学する』です。
前回は、“保守的すぎるがゆえに犯す想像の誤り”についてお話ししました。
次々と繰り返される不完全な予測・的はずれな予想の類似点
先見の名があるといわれていた科学者・発明家でも、未来についての予測や予想は不完全であったり、的外れであったりと指摘されています
(上記の例の一つとして、19世紀の物理学者の中でも特に先見の明のある人物だったウィリアム・トムソンが、「空気より重い飛行機械はありえない」と結論づけていたことが挙げられています)。
そして、その誤り方には「予想した未来は現在に似すぎている」という類似性があるともいわれています。
記憶の穴埋め、未来の想像につかわれる「きょう」という材料
私達が過去を思い出すときに、記憶の曖昧な部分には「きょう」という材料を使っての穴埋めが行われています。
例えば、付き合っているカップルは、2カ月前にお互いのことをどう思っていたかを聞かれると、今とまったく同じように感じていたと答える傾向にあるそうです。
実際に過去にどんな気持ちだったかを正確に覚えている人はいないでしょう。それでも答えなければならないとなると、その過去の気持ちの穴を 現在の気持ちで埋め合わせたといえるのですね。
ちょうど同じように、想像するときにもまた「きょう」という材料を使っての穴埋めのトリックが使われています(想像の場合は穴埋めというより、想像したものそのものが現在にすっかり染まっています)。
たいていの人は、「きょう」と大きく違う「あす」をなかなか想像することはできない、
自分が今と違う考えや望み、感情を抱くとは想像できないのです。
だから、いまが満腹だと 空腹のときの自分をうまく想像するのがとても難しいのですね。
脳のメカニズムからわかる、具体物を鮮明に想像できる理由
なぜ私達は、「きょう」を抜きに未来を想像できないのでしょうか。
その理由が、想像そのものの性質にあります。
私達は、実際に見たり聴いたりするときだけでなく、具体物や音を想像するときにも視覚野・聴覚野という感覚領が活発になることで、具体像が浮かび上がったり音の想像ができたりします。

感情経験の場合も同様で、私達は想像上の出来事にも 現実の出来事に感情反応する脳の領域が活発になり、感情反応します。
この、未来の出来事に対するあらかじめの反応は「予感応」といわれます。

この予感応は、論理的思考よりも未来の感情を正確に予測できることもわかっています。
予感応の限界-知覚と想像は同時にできず、知覚が最優先される
しかし予感応は万全ではなく、限界があります。
その限界とは、感覚領は 現実世界のものの感知が最優先されるため、現在の知覚で忙しいときには うまく未来の出来事に反応できないというものです。

このため、満腹のときには、その現在の知覚を切り離して「空腹の自分」という未来の出来事に対しての感情反応が鈍くなるのですね。
感情系の問題点-想像からの要求が却下されたことに気づかない
さらに感情反応の問題点が、現在の感情経験(感情)と、未来の感情経験(予感応)の区別ができず、ごちゃまぜにしてしまうことです。
現在どのように感じているかが未来の出来事への感情経験に影響を与えているのですが、私達はそのことに気づかず、想像した感情は未来の出来事のみがもたらす感情であると思い込んでしまっているのです。

その例の一つとして、アメリカ国内のさまざまな地域に住む人たちの、現在の生活への満足度をたずねた調査があります。
この調査では、その日たまたま天気がよかった地域の住民は、自分の生活に幸せだと報告する人が多く、
反対に、天気が悪かった地域の住民は不幸せだと言う人が多かったそうです。
現在の天気がどうかということと、自分の普段の生活への満足度は切り離して考えるべきです。
しかし回答者は、脳が現実に反応していること(天気がよいから気分がいい・天気が悪いから気分が滅入っている)に気づかず、現実への感情を 想像への予感応と取り違えてしまったといえるのですね。
想像からの要求が却下されたにもかかわず、それに気づかずに、現在の感情を予感応だと思い込んでしまう。これが予感応の問題点です。
前回の記事はこちら
今回は、「知覚と想像とが 同じ基盤を時間差で使っている」こと以外の、現在主義の原因について見ていきます。
時の流れをつかまえられるか?-時の流れと想像の関係
私達は、具体的な物体について心のイメージを作ることは、それほど難しくはありません(たとえそれが空飛ぶキャンピングカーのような、実際にはあり得ないものであっても)。
この、心のイメージをたやすく作りあげる驚異的な才能は、人間が物質界でうまく立ちまわれる理由の一つといわれています。
しかし、「時間」というものが過ぎていくのを想像することはできるでしょうか。
時間は色も形も大きさも手触りもありません。
つつくことや刺すこと、押すこと、塗ること、穴を開けることなど、いずれもできませんね。
時間はこのように抽象概念であるため、想像には向いていないのです。
けれど、未来の感情を予想するには、時間の中で、時間について、時間の枠を超えて考えなければなりません。
では、時間をはじめとする抽象的な概念を心にイメージできないとしたら、私達はどうやってそれを考えたり推論したりできるのでしょうか。
抽象的な時間をイメージするには? ― “空間”におきかえる
人は何か抽象的なものについて推論しなければならないとき、その抽象的なものに似た具体的なものを想像して、そこから類推する傾向にあります。
時間の経過を想像する場合、ほとんどの人は、時間に似た具体的なものとして、空間を思い浮かべる、といわれています。
研究によると、世界中どこでも、人びとは時間を「空間の一次元」であるかのように想像します。
- 過去は自分の後ろにあり、未来は自分の前にある
- 老年期に向かって進み、幼少期を振り返る
のように表現するのですね。
まるで自分たちがあそこにある「きのう」を離れて、180度反対の位置にある「あす」へと向かうように考えたり話したりしているのです。
このような類推は、私達の強みを利用して弱点を克服できる巧妙な方法です。
考えたり推論したりできないものも、思い浮かべられる物事を利用すれば、想像できるようになります。
時間を空間におきかえることの問題点
しかし類推はわかりやすくするだけでなく勘違いさせることがあり、時間を空間の一次元と想像するのはそのどちらもなりうる、と指摘されています。
それについて、このような例えが紹介されていました。
あるレストランに行った際に給仕長が、これから1年の間、毎月、第1月曜日にあなたを特別席に招待して、無料で食事を提供したいと申し出たとします。
ただし、厨房では食材が足りなくなることもありうるので、常に心からもてなしをするためにも、今のうちに12回分の料理をお決めくださると大変ありがたいのですが、と言います。
そこであなたは、メニューを開きます。
メニューを見ていくと、いっきに膨らみつつある自分の空想にぴったりな料理が4つ、ありました。
- ヤマウズラのワサビ風味
- シカ肉のガンボスープ
- シイラの焦がし焼き
- 魚介のサフランリゾット
あなたの好みではヤマウズラが一番で、これだけを12回分頼んでもいい気がしてきました。
けれど、それはいくらなんでも無粋のように感じ、何より“変化”という人生のスパイスを楽しめないと思い、結局、ヤマウズラは隔月ごとにして、残りの6回を均等にガンボスープとシイラとリゾットに割り当てることに決めたとします。
では、12回分を一番のお気に入りだが同じものにした場合と、お気に入りではないものの変化を与えるために月ごとに別のものを頼んだ場合とで、どちらが幸福感が高まるでしょうか。
変化は人生のスパイスになりえるか
実は、菓子を用いてそれを調べた実験があります。
それは、参加を実験室へ週1回 来てもらい そのお礼に菓子を渡す、それを数週間つづけてもらうというものです。
事前にどの週にどの菓子をもらうかを選んだ参加者(選択群)は、あなたと同じように、多様な種類の菓子を組み合わせて選ぶ人が多かったそうです。
さらに、別の志願者グループを週1回、数週間通わせて、一部の志願者には一番好きだという菓子を毎回続けてだし(不変群)、
ほかの志願者には一番好きな菓子をほとんどの回にだし、残りの回は二番目に好きな菓子をだすことにしました(変化群)。
この研究の間の数週間、志願者の満足度を測定したところ、不変群のほうが変化群より満足度が高いことがわかったそうです。
つまり、変化によってより幸せになるどころか、かえって幸せが薄れてしまったことがわかりますね。
変化が効果的な場合と、そうでない場合の違いは?慣れを打破する2つの要素
変化が幸福感によい影響を与えるのは、次のような真理があるからです。
すばらしい出来事は、最初に起こったときが特別すばらしく、繰り返し起こるにつれてすばらしさが薄れてしまう。
私達は、ひとつの経験──例えば、特定のソナタを耳にする、特定の部屋の特定の窓から夕日を眺める──を何度もつづけて体験すると、上記の真理にあるように、得られる喜びがそのたびに減っていきます。
これを心理学者は「馴化(じゅんか、=慣れ)」と呼び、経済学者は「限界効用の逓減」と呼んでいます。
しかし人間は、これに対抗する工夫を2つ発見した、といわれています。
それが「変化」と「時間」です。
慣れを打破する一つ目の方法は、経験の種類を増やすことです(変化)。
そして、慣れを打破するもう一つの方法は、次に経験するまでにもっと時間をおくことです(時間)。
喜びの大きな特別な経験も、それが毎晩のこととなると特別感はなくなり、つまらない経験に成り下がってしまいます。
けれど、大晦日に経験した後に次回まで丸1年待てば、それは永遠に喜びのイベントであり続けるでしょう。
1年あれば、慣れの効果が薄れるのには十分だからですね。
ここで重要なことは、「変化」と「時間」はそれぞれ慣れを避ける方法でありますが、一方があればもう一方はなくてもいい、という点です。
さらに、次に経験するまでにたっぷりと時間が空いている場合、変化は不要なばかりか、むしろ損失になる、とさえいわれています。

次の経験までの時間が長ければ、変化は“損失”になりえる
変化と時間の関係について、以下のような仮定の話が紹介されていました。
まず、快楽度計という計測器で、人の喜びを「快楽度」という単位ではかれると考えます。
はじめに「好み」を想定します。
先のヤマウズラの最初の一口が、仮に50ヘドンの喜びを与え、
ガンボスープの最初の一口が40ヘドンの喜びを与えてくれるとしましょう。
料理を一口食べたあとは、例えば10分以内におなじ料理を一口食べるたびに、前の一口より1ヘドンずつ喜びが減るとします。
最後に「消費速度」を想定します。
あなたが普段、30秒に一口の割合できびきび食べると仮定します。
これら「好み」と「慣れ速度」と「消費速度」を以上のように仮定したときの、あなたの喜びの推移を示したのが下図です。

これを見ると、喜びを最大にする一番いい方法は、ヤマウズラからはじめて、10口食べたあと(5分後にあたります)ガンボスープに切り替えることだとわかります。
なぜ切り替える必要があるかというと、グラフの直線からわかるように、ヤマウズラの11口目(5.5分後)は39ヘドンの喜びしかもたらさないのに対して、
まだ味わっていないガンボスープは40ヘドンの喜びを与えてくれるからです。
したがって、食事のちょうどこの時点が(仮に友人と一緒にレストランに行って、別々の料理を頼んだとすれば)、料理なり席なりを友人と交換するのに絶好のタイミングとなるのですね。
ところが下図のように

消費速度を変えてこの美食経験の時間を引きのばすと、ガラリと事情が変わると指摘されています。
一口と一口の感覚が10分以上(上記の図の場合は、15分)になると、慣れが起こらなくなるのです。
どの一口も最初の一口と同じだけ喜びをもたらし、ガンボスープの一口は決してヤマウズラの一口は超えられないとわかります。
つまり、すごくゆっくりと食べることさえできれば、変化は不要なばかりか、むしろ損失になりさえするのです。
この条件の下では、ガンボスープの一口は、永久にヤマウズラの一口ほどの喜びを与えてはくれないからです。
仮に友人と一緒に想像上のレストランに行ったとすれば、変化をもたらすために2つの料理を同時に注文したとすると、これはいい判断といえます。
ヤマウズラを食べ続ければ、慣れによって そこから得られるヘドンが減っていくためですね。
しかし給仕長に、これから先食べる料理をあらかじめ注文するように言われたときにも変化を求めました。
すでに、慣れを避けるための「時間」という方法を手に入れていたのに、なぜ変化まで求めてしまったのでしょうか。
時間という方法を手に入れながら変化を求めた理由
その原因は「空間を使った類推」にある、といわれています。
時間的に隔てられた料理について考えるのに、10センチメートルばかり離して1つのテーブルにおかれた料理を想像したせいで、空間的に隔てられた料理に当てはまること(変化を求めること)が、時間的に隔てられた料理にも当てはまると思い込んでしまったのです。
料理が空間で隔てられているときに変化を求めるのはもっともな話であり、
例えば、1つのテーブルにまったく同じ12皿のヤマウズラが並んでいたらどうでしょうか。そのテーブルに座りたがる人はほとんどいないでしょう。
1回の出来事で経験する選択肢は変化に富んでいることが望ましいですね(1回の食事でいえば、まったく同じ料理を食べ続けるよりも、いろいろな種類の料理が食べたいと思う)。
問題は類推するときに、12ヶ月のあいだに毎月1皿ずつ経験する12皿の料理を、目の前にある横長のテーブルに1度に並べられた12皿の料理であるかのように考えて、「とびとびの選択」を「同時の選択」と同様に扱ってしまうこと、と指摘されています。
なぜそれが問題かというと、「とびとびの選択」はすでに時間を味方につけているので、さらに変化を与えることは喜びを増すどころか、減らしてしまうからなのです。

「時の流れ」をイメージできない私たちは、未来の出来事への感じ方をどう判断しているのか
心のイメージは、おおむね時間を持たない
時間を想像することは非常に難しいため、これまで見てきたように、私たちは時間を空間に置き換えて想像することがあります。
その一方で、まったく想像しないこともあるのです。
未来の出来事を想像するとき、心のイメージには、
- 関連のある人物
- 場所
- ことば
- 行動
が、たいてい含まれています。
しかし、その人たちがその場所で話したり行動したりするのがいつかというと、「時間」をはっきり示すものはまず、含まれていないのです。
例として、
大晦日に連れあいが郵便配達員と浮気をしているところを目撃する
という心のイメージがあったとします。
この心のイメージの「連れあい」を「理容師」と入れ替えたり、
「浮気をして」を「会話をして」と入れ替えたりすれば、その心のイメージは劇的に変化しますね。
ところが、「大晦日」を「感謝祭」と入れ替えた場合はどうでしょうか。
その場合、心のイメージはほとんど何も変わっていないとわかります。
それは、そもそも変更すべき心のイメージがないからですね(「大晦日」を指し示すものが、心のイメージには見当たらない)。
心のイメージを調べて、 【だれ】が【どこ】で【何】をしているかを見ることはできるものの、【いつ】しているのか見ることはできません。
心のイメージはおおむね 時間を持たないのです。
未来に起きる出来事の感じ方を判断する方法
それでは、未来に起きる出来事について自分がどう感じるかを、私たちはどうやって判断しているのでしょうか。
その方法とは、それが今起こったらどう感じるかを想像し、「今」と「のちのち」が完全に同じではないことを考慮して少し割り引く、というものです。
たとえば、ある出来事が「50年後」に起こると想像するように言われたとき、はじめは今まさに起こっているかのようにその出来事を想像します。
その後で、出来事が起こる50年後には、今の自分とはまったく違う感じ方をしているのに気がつきます。
想像した未来への感じ方は、「今、それが起きたらどう感じるか」であり、50年後のそれとは違うことを気づくまでにはわずかばかり、時間がかかるのです。
「今」と「未来」が違うと考慮するまでにはわずかな時間しかかからないのだから、気にするほどのことでない、と思いますよね。
ところがギルバート教授は、これは気にするべき案件であると指摘しています。
今を基準に未来の感じ方を想像する方法は、判断の誤りをもたらす
私達は、出発した場所に近いところを終点にする
私達は未来の出来事をどう感じるかを想像するとき、「今起きていること」として想像したあと、実はのちのち起こることだったという事実に合わせて想像を修正すると見てきました。
これは誰もがよく使う方法なのですが、どうしても判断を鈍らせてしまう、といわれています。
この誤りの本質を理解するのを助ける、一つの研究が紹介されていました。
それは、国連加盟国の何%がアフリカの国かを志願者に推測させる研究です。
ただし、すぐに答えさせるのではなく、「意見ひるがえし法」を使って考えさせる、というものです。
具体的には、
- 一部の実験参加者には10%よりどれくらい多い・または少ないと思うか答えさせる
- ほかの実験参加者には、60%よりどれくらい多い・または少ないと思うか答えさせる
というものでした。
この「意見ひるがえし」法の問題点は、出発点が終点に大きな影響をおよぼすことです。
10%からはじめた参加者は 国連加盟国のおよそ25%がアフリカの国だと推測したのに対し、60%からはじめた参加者は およそ45%と推測したのでした。
なぜここまでの違いが出たのでしょうか。
参加者はまず、出発点が正解かもしれないと考えます。その後、そんなはずがないと気づいて、ゆっくりと妥当な答えに向かっていく、という過程をたどりますね。
「10%のわけがないな。では、12%ならどうだろう? いいや、まだ少なすぎる。14? それとも25か?」というようなプロセスを踏むでしょう。
ただ、残念なことに、この過程には時間と集中力を要します。
その結果、10%からはじめたグループも60%からはじめたグループも途中で疲れてしまい、中間で出会う前にやめてしまったのです。
これはそれほど不思議なことではなく、
たとえば、一人の子供にゼロから数えさせて、別の子供に100万から逆に数えさせたら、やがて疲れて嫌になってしまうことは目に見えてますし、ふたりがそこまで数えた数がまったくかけ離れているのも想像にかたくないですね。
私達は出発した場所に近いところを終点にする場合が多いため、出発点がどこかは大問題だといえるのです。

「出発点に近いところを終点にする」ことによる誤りは、未来の感情予測にも見られる
このことは、未来の感情予測にも当てはまります。
先でお話ししたように、未来の出来事を現在のことのように想像してから、実際に出来事が起こる時点(先の例でいえば、50年後)に合わせて修正する方法で 未来の感情を予想すると、同じ誤りが生じるのです。
これに関して、参加者に、明日の午前か午後にミートソーススパゲティをどれだけ楽しめるか予測させた研究が紹介されていました。
実験参加者の中には、予測するときに空腹な人も、空腹でない人もいました。
理想的な条件下では(想像を妨げるものが何もない環境では)、参加者は午前より午後のほうがスパゲティを楽しめると予測し、現在の空腹感が予測に与える影響はほとんどありませんでした。
ところが、一部の参加者は理想的でない条件下で予測するように指示されました。
その条件とは、予測するのと同時に、音階を言い当てるという第二の課題が課せられる、というものです(こうした同時課題を行うと、出発点にとても近いところにとどまる原因になることも研究でわかっていました)。
この研究でも、音階を言い当てながら予測した参加者は、午前も午後も同じだけスパゲティを楽しめると予測をしました。
そのうえ、現在の空腹感が予測にも大きく影響しました。
空腹の参加者は翌日のスパゲティを(食べる時間帯にかかわらず)気に入ると予測し、満腹の参加者は翌日のスパゲティを(食べる時間帯にかかわらず)気に入らないと予測したのでした。
このような結果のパターンから、すべての参加者が「意見ひるがえし」法を使って予測したことがうかがえます。
最初に、今 スパゲティを食べたらどれだけ楽しめるかを想像し(空腹なら「おいしそう!」となり、満腹なら「うえぇ!」となりますね)、この予感応を 明日の喜び予測の出発点としました。
次に、参加者は、スパゲティを食べる時間帯を考慮して(「夕食にスパゲティは嬉しいけれど、朝食にスパゲティだって? うえぇ!」)、自分の判断を修正したのです。
しかし、音階を言い当てながら予測した志願者は、自分の判断を修正できず、出発点とかなり近い場所を終点としてしまったのです。

私達は、未来の感情を予測するとき、自然と現在の感情を出発点にするため、未来の感情が実際以上に今の感情に似ていると思い込んでしまうのです。
次回は、比較することの本質と、想像した出来事の感情予測の関係についてお話ししていきます。
まとめ
- 私達は未来の出来事を想像するとき、時間は抽象的な概念であるためにイメージをすることができません。そのため、時間に似た空間を思い浮かべて類推することで、「抽象的な概念はイメージしづらい」という弱点を克服しています
- 時間を空間に置き換える類推は弱点を補えるものの、勘違いが起きうるという問題点があります。それは、「時間」という慣れを打破する要素がすでにあるにもかかわらず、時間を空間に置き換えることで「変化」が必要、と思い込んでしまうことです
- 「変化」と「時間」はそれぞれ慣れを避ける方法であるものの、一方があればもう一方はなくてもよく、次の経験までに十分な時間が空いていれば変化は不要なばかりか、むしろ損失になる(幸福感が減退する)ことも研究でわかっています
- 時間という方法を手に入れながら変化を求めたのは、(料理を選ぶ実験でいえば)類推の際に、目の前にある横長のテーブルに1度に12皿の同じ料理を並べてしまい、変化が必要だと認識したことにあります
- 未来の出来事を想像するとき、類推せずに、時間をまったく想像することなく心のイメージを思い浮かべることもあります。私達はそれが今起こったらどう感じるかを想像し、今と「のちのち」が同じではないことを考慮して割り引くのです
- 私達には、何かを予想する際に、出発した地点に近いところを終点にするという性質があります。その性質のため、今を基準に未来の感じ方を想像する方法では、どうしても想像した未来の感情は実際以上に今の感情に似ていると思ってしまうのです
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