ハーバード大学の人気教授 ダニエル・ギルバート氏の『明日の幸せを科学する』を通して、“脳のメカニズム”をご紹介していきます。
今回はその12回目です。
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『明日の幸せを科学する』の主題-人間は未来をどう想像しているのか
未来の自分を幸せにしたいと思いながら、幸せになれていないのは?
私達は常に「どうすれば幸せになれるのか?」を考え、
毎日、自分が幸せになるための選択をしています。
ところが、幸せになれるどころか、
選択をしたことを後悔してしまうことさえあるのではないでしょうか。
それは、
「私達が未来を想像するとき、誰もが規則正しく 想像に関する共通した誤りを犯しているから」
なのです。
では、その“未来に関する共通した誤り”とは何なのでしょうか?
それについて解説されているのが『明日の幸せを科学する』です。
前回は、“遠くのものは小さく、きれいに見える”想像に関する誤り についてお話ししました。
脳は細部をこっそり無視する
私達は未来を想像するとき、特定の出来事の影響を過大評価し、細かい部分は無視してしまう傾向にあります。
しかも その細部の想像が欠けていること自体、ほとんど気づかないことも指摘されています。
この想像の誤りによって 私達は 未来の出来事に対する自分の気持ちを誤って見積もってしまうのです。
その例として挙げられていたのが、カルフォルニアでの生活に対するイメージです。
カリフォルニアに住んでいない多くのアメリカ人は、自分よりもカリフォルニア住民のほうが幸せだ考えています。
しかし研究によると、カルフォルニア住民は決してほかの人達よりも幸せ、というわけではないことがわかっています。
それは、カルフォルニアと聞くと、さんさんと日の降り注ぐ砂浜や、セコイアの木など、素晴らしい気候・美しい景観を思い浮かべますね。
さんさんと日の降り注ぐ砂浜 | セコイアの巨木 |
![]() | ![]() |
しかしこれはあくまで人の幸せを左右する多くの事柄の1つに過ぎず、交通量や災害の多さといった ほかの重要な要素はいくつもあります。
多くのアメリカ人は、幸福感に大きな影響を与える細部を想像しそこねて、しかも想像しそこねた細部が重要であることにも気づかないため、カルフォルニア住民のほうがより幸せだ、と誤った結論づけをしているのですね。
このことは、障害のある人達の幸せを過小に見積もることにも共通しています。
視覚に障害のない人は、目の見えない人を自分よりずっと不幸だと考える傾向にありますが、実際には、視覚に障害のない人とある人とで、幸福感はまったく変わらないことがわかっています。
目の見えない人をずっと不幸だと考えるのは、想像しそこねた細部(視覚情報こそ入ってこないものの、目の見えない人もほとんどのことができること)が結論を劇的に変えうるという事実を考慮していないから、といえるのです。
脳の、想像に関する誤り-遠くのものは小さく、きれいに見える
私達はのっぺりとぼんやりしたものを見たときは、それが遠く離れているからと気づきます。
しかし遠い未来のことを想像するとき、それがおぼろげで、のっぺりしている抽象的なものであっても、もともと「おぼろげで、のっぺりしているもの」と結論づけてしまうのです。
この脳がもたらす想像の誤りは、私達が「なんでこんな約束をしてしまったのか」と後悔する原因ともいわれています。
約束した時点では魅力的に思えることでも(例えば、子守りを引き受けたとすると)、いざ約束を果たす段階になると、それまではのっぺりしていた細部がはっきりと見えてきます(おもちゃを買ったり、食事の支度をしたり、部屋の片づけをしたり、といったこと)。
すると、「なんでこんな(魅力的でない)約束をしてしまったのか」と後悔するのですね。
「近い未来の喜び・痛み=大きい、遠い未来の喜び・痛み=小さい」という思い込み
近い未来の出来事は細部まで想像するため、遠い未来の出来事がもたらす喜びや痛みより大きいものと考える傾向にある、ともいわれています。
例えば、遠い未来で1日 待たないと報酬がもらえない痛みはそれほど大きな痛みと感じないため、私達は1日待ってから報酬を受け取ることを選択します(364日後に19ドルを受け取るよりも、1年後の365日後に20ドルを受け取ることを選ぶ)。
ところが、近い未来で1日 待たないと報酬をもらえない痛みは、遠い未来の痛みよりも大きな苦痛と感じるので、私達は合理的に考えれば損をする選択肢(明日20ドル受けとるよりも、今日19ドルを受けとる)を選んでしまうのです。

前回の記事はこちら
今回は、脳の想像に関する欠点の別面-保守的すぎるがゆえに想像の誤りを犯す-ことについてお話ししていきます。
“保守的すぎる”がゆえに犯す想像の誤り
次々と繰り返される不完全な予測・的はずれな予想の類似点
「未来がどんな世界になっているのか」の予測は、そのほとんどが的外れであると指摘されています。
例えば、イギリスの物理学者 ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)は、19世紀の物理学者の中でも特に先見の明のある人物だったといわれていますが(温度をケルビンで表すのはそのためです)、
あすの世界にじっくり目をこらしたにもかかわらず“空気より重い飛行機械はありえない”と結論づけたそうです。

(引用:File:Lord Kelvin photo.jpg – ウィキメディア・コモンズ)
同年代の科学者のほとんどが同じ意見だった、ともいわれています。
著名な天文学者であったサイモン・ニューカムもまた、
既知の物質、既知の機器の形態、既知の力の形態をどう組み合わせても人間が空中を長く飛行できる機械になりえないことは、いかなる物理的真実も実証が可能だということと同じくらい、完全に実証されたとわたしには思える
と記しているそうです。
このように「飛行機など不可能」だと明言した科学者や発明家の人数を上回ったのが、宇宙旅行やテレビ、電子レンジ、原子力、心臓移植、女性議員について同じことを言った人たちの数だ、とも指摘されています。
次から次へと繰り返される不完全な予測・的はずれな予想や予言は広範囲に及んでいますが、ここでは誤り方の類似性に注目したい、といわれています。
その類似性とは、「科学者が未来について誤った予測をする場合、まず例外なく、その予想した未来は現在に似すぎている」ということです。
記憶の穴埋めにつかわれるのは「きょう」という材料
私達が、過去の出来事を思い出すとき、その記憶の曖昧な部分には穴埋めが行われます。そして、その埋められるものは「きょう」という材料である、といわれてます。
過去を思い出そうとするときに、いかに頻繁に「きょう」を使っているかは、さまざまな調査で明らかになっています。
例えば、大学生は、政治について自分の意見がひっくり返るような説得力のある演説を聞くと、自分が以前からそう考えていたと感じる傾向にあります(過去の自分の考えの穴が、現在の自分の考えによって埋められたといえます)。
付き合っているカップルは、2カ月前にお互いのことをどう思っていたかを聞かれると、今とまったく同じように感じていたと答えるそうです(過去の気持ちの穴が、現在の気持ちで埋められた)。
学生は試験の成績を返されると、試験を受ける前にどれくらい不安だったかという記憶が、結果の良し悪しに影響されるといわれます(試験を受ける前の気持ちの穴を、試験の結果-結果が良ければ、リラックスして受験し 力を発揮できた・結果が悪ければ、緊張していて思うように力を発揮できなかった-で埋めようとする)。
さらに、患者は頭痛の症状を説明するとき、その瞬間の痛みの強さによって前日の痛みの記憶が左右される(前日の痛みの穴が、現在の痛みの強さによって埋められる)そうです。
ほかにも、夫や妻と死別をした人は、5年前に連れあいをなくしたときにどれだけ悲しかったかを思い出すとき、現在感じている悲しみの度合いに記憶が左右される、ともいわれています(過去の気持ちの穴が、現在の気持ちで埋められる)。
このように、例を挙げていきますときりがありませんが、ここで重要なことは、どの場合も自分の過去を誤って思い出していることだ、と指摘されています。
今の考えや行動や発言を、かつての考えや行動や発言として思い返している ということですね。
想像に使われるのも「きょう」という材料
上記のように、記憶には穴埋めのトリックが使われていますが、想像は穴埋めのトリックそのものである、といわれています。
つまり、記憶は、現在によって かすかに色づいている程度ですが、想像したものは現在にすっかり染まっている、ということです。
平たく言うと、たいていの人は、「きょう」と大きく違う「あす」をなかなか想像できない、
特に、自分が今とは違う考え・望み・感情を抱くとは予想できない、といわれています。
例えば、10代の若者は、それが永久にかっこいいと信じるからタトゥーを入れますし(タトゥーがダサいと思う自分を想像できない)、
愛煙家は、一服したあとの少なくとも5分間は、禁煙など簡単だと信じています(血中のニコチン濃度が薄れ、決心が揺らいでいく自分を想像できない)。
心理学者であっても、その傾向(「きょう」を切り離して「あす」を想像することができない)は変わらないといわれています。
『明日の幸せを科学する』の著者であるギルバート教授自身、その手の経験をしていることが紹介されていました。
それは、ほとんど毎年の感謝祭で とんでもなく食べすぎてしまうことです。
食べすぎてしまって ソファーにばたりと倒れ込んだあと、「もう一生何も食べないぞ」とつぶやくものの、当然また食べてしまう…
これは、料理を口にした瞬間は、食べることなど簡単に止められると思っていることに問題があります(今は空腹なので、食べすぎて苦しむ未来の自分を想像できない)。
これはギルバート教授だけにあてはまることではありません。
研究室とスーパーマーケットの研究において、食べたばかりで買い物に行くと、翌週分の食料を選ぶとき、未来の食欲をかなりの確率で過小に見積もることがわかっているそうです(今は満腹であるという「きょう」と、未来の食欲という未来とを切り離せず、空腹である未来の自分を想像できない。プロジェクション・バイアスと呼ばれる現象です)。
ギルバート教授はこのことを
満腹だと空腹のときの自分をうまく想像できず、いずれかならずやってくる空腹に備えることができない
と説明しています(これとは反対に、空腹のときは満腹である自分を想像できないから食べすぎてしまうのですね)。
心にもあてはまる「きょう」という材料による穴埋め
さらに このことは、満たされた心にもあてはまる、といわれています。
ある研究で、志願者に地理の問題を5問出して、その問いに答える報酬として 次の2つのうち1つを選ばせたそうです。
- 正解を聞いて、自分の答えが合っていたかどうか確認する
- チョコレートバーを受けとって、正解は聞かないで済ます
一部の志願者にはクイズを受ける前に報酬を選ばせ、ほかの志願者にはクイズを受けた後に報酬を選ばせたそうです。
結果はどうなったかというと、あなたのご推察のとおり、クイズの前に報酬を選んだ人はチョコレートバーを受けとることを選び、クイズの後に報酬を選んだ人は正解を聞くのを好む傾向があったといわれています。
つまり、クイズを聞く前に報酬を選ぶ人はチョコレートバーに魅力を感じるものの、クイズの問題を聞いた後で報酬を選ぶ人はクイズに好奇心がわき、おいしいチョコレートバーより正解のほうが重要になった、ということですね。
ここで注目すべきは、こうなること(報酬を選ぶタイミングが変わることで、どの報酬を選ぶかも変化すること)は事前にわかるかどうか、ということです。
これについて、別の志願者のグループに、自分ならどちらの報酬を選ぶと思うかをたずねたところ、クイズの前でも後でもチョコレートバーを選ぶだろう、という意見だったそうです。
クイズによって生じる強い好奇心を経験していない志願者は、その好奇心のためにチョコレートバーをあきらめる自分など、考えもしなかったのですね。
この実験から、好奇心は強力な衝動であり、その心を満たすなら多少の欲求は簡単にあきらめることができるとわかります。
しかし、その好奇心を経験していなければ、好奇心による衝動がどれだけ急激かつ強烈に人を駆り立てる力があるかは、なかなか想像できないのです。

このように、自分の渇望を予知する難しさは誰しも身につまされるものがありますが、なぜ、人間の想像力は簡単に打ち負かされる(少し先の自分の未来さえも想像できない)のでしょうか。
なぜ「きょう」を抜きに未来を想像できないのか
脳のメカニズムからわかる、具体物を鮮明に想像できる理由
なぜ、これほどまでに近い未来の自分の姿を想像できないのか。これに答えるための前提知識として、想像そのものについての性質が紹介されています。
私達が具体物(ペンギンや蒸気船、セロハンテープ台など)を想像するときは、頭の中で物体のおおよその姿が実際に見えています。
これは、普段 目で見たときに活発になる脳の領域が-視覚野と呼ばれる感覚領-が、心の目で心のイメージを調べるときにも活発なるからです。
このことは、ほかの感覚でも起こります。
ふつうは耳で本物の音を聴いたときにだけ活性化する聴覚野と呼ばれる感覚領が、音を想像するときも活発になるといわれています。
こうした結果から、脳は、目や耳で感知できる外界の特徴を想像するとき、感覚領の助けを借りることがわかります。
ある物体が目の前にないときも、それがどう見えるかを知りたければ、記憶から視覚野へ物体の情報を送って心のイメージを経験すると 具体像が浮かび上がる、ということですね。
この機能があるおかげで、私達は仮に物置にひとりでこもっていても、目の前にはいないペンギンのこともわかるのです(下図を参照)。

では、こうした見たり聴いたりするときのメカニズムと、満腹のときは空腹を想像することが難しい(「きょう」を抜きに「あす」は想像できない)こととは、なんの関係があるのでしょうか。
私達は、想像上の出来事にも感情反応する
未来の感情を教えてくれる過程も、物置に閉じ込められていてもペンギンの外見を教えてくれる想像の過程(記憶 ⇒ 視覚野 ⇒ 視覚経験)と同じだとわかっているそうです。
現実の出来事に感情反応する脳の領域は、想像上の出来事にも感情反応する、といわれています。
例えば、「チーズたっぷりのピザ」という言葉を聞くと、ピザを食べるところをイメージして得られるちょっとした喜びや、想像ではなく本物のピザを口に入れたらもっと大きな喜びを味わえそうだということも想像できますね。
また、自分の苦手な食べ物の名前を聞いたら、それを目の前にしたことを想像して嫌悪感を抱くこともあります。
このように私達は、未来の出来事を想像の中でシミュレーションして、自分がそれにどう感情反応するかを確かめて、これからの行動を選択しています。
想像は、目の前にないものを「あらかじめ見る(プレビューする)」ように、未来の出来事に「あらかじめ感応する(プレフィール)」(=予感応)する、といわれています。

予感応の力-論理的思考よりも正確に未来の感情を予測できる
この予感応はときに、論理的思考よりも的確に感情を予測することがわかっています。
志願者に
- 印象派の絵画の複製
- 猫の漫画のユーモアポスター
のうち、どちらか好きなほうをプレゼントする、という実験が行われました。
どちらにするかを決める前に、
一部の志願者にはそれぞれのポスターがよそさう・よくなさそうと思った理由について論理的に考えさせました(思考群)。
ほかの志願者には、「直感」ですばやく選ばせました(思考なし群)。
ふつう、堅実な判断をしたいのなら、時間をかけてじっくり考えるべきだと思う人は多いでしょう。
しかし、実験後に実験者が志願者に電話をかけて、新しい美術品を気に入ったかどうか質問すると、良いか悪いかの理由を考えた思考群のほうが満足度は低いことがわかったそうです。
思考群は、家で壁に飾ったところを想像して幸せを感じるほうのポスターを選んだのではなく、自分の予感応を無視しました。
一方で、思考なし群は自分の予感応を信じて選びました(想像上の壁に貼ったポスターが自分をいい気分にさせてくれるなら、実際に壁に飾ったポスターを見ても同じ気分になるだろうと推測したのでした)が、その推測は正しかったのですね。
これは、予感応のおかげで、思考なし群はより正確に未来の満足度を予測していた、といえます。
このことについて、人は現時点で感情を持つことを妨げされると、一時的に 未来にどう感じるか予測できなくなる、と指摘されています。
予感応の限界-知覚と想像は同時にできず、知覚が最優先される
しかし、その予感応にも限界があるともいわれています。
何かを想像しているときの感情が、実際に見たり聴いたりしたときの感情のいい目安とはならないときがあるのです。
例えば、私達は物体を思い浮かべたいときに目を閉じたり、歌のメロディを思い出したいときに耳をふさいだりしますが、それがなぜでしょうか。
実は、脳は視覚野や聴覚野を単独で使わなければ視覚や聴覚の想像力を働かせることができません。
よって、これらの領域が現実世界のものを見たり聴いたりするという 本来の仕事で忙しいと、うまく想像することができないのですね。
仮に、現実の物体と想像上の物体を同時に見るように脳に求めた場合、脳はたいてい、前半の望みだけをかなえて、後半は却下します(想像することをやめる)。
それは、脳は現実の知覚が最優先の義務だと考えているからです。現実の物体を見る必要があるときには、視覚の領域を少しの間だけ拝借しようとしても 即座にきっぱり断られます。
現実の知覚を最優先するのは、それを怠った場合のほうが取り返しのつかない事態になりかねないからですね。
もし脳が現実の知覚を優先しなければ(たまたま青信号のことを考えていようものなら)、本物の赤信号を無視して突っ切ってしまいかねません。
この現実主義を貫く脳の方針は、同じように、
- 嫌悪感を抱いているときに欲望を想像すること
- 怒りを感じているときに愛情を想像すること
- 満腹のときに空腹を想像すること
を難しくするのですね。
仮に、友人があなたの新車を大破させ、おわびに来週の野球の試合に連れていく、と申し出ても、当然ながら あなたの脳は大破した車に反応することに手いっぱいで、野球の試合にどう感情反応するかのシミュレーションなどできないでしょう。
このことについてギルバート教授は
未来の出来事が脳の感情の領域を使用する許可を求めても、たいてい現在の出来事が通行優先権をにぎっている
と語っています。

感情系の問題点-想像からの要求が却下されたことに気づかない
2つのことを同時に見たり感じたりすることはできないため、脳は何を見、聴き、感じたりするかについて、厳密な優先順位をつけます。
そして、現実の知覚が最優先されるために、想像からの要求はよく退けられます。
その優先順位のつけ方は感覚系も感情系も一緒なのですが、私達は感覚系が想像からの要求を却下したことには気づくのに、感情系が想像からの要求を却下したことには気づかないことです。
例えば、感覚系の場合、ダチョウを見ながらペンギンを想像しようとしても、脳の方針はそれを許しません。
私達もそれを承知しているので、わけがわからなくなることもありませんし、今見ているもの(ダチョウ)を 想像しているペンギンだと誤って結論づけることはありませんね。
外界からの情報の流れによって起きる視覚経験は「視覚」、
記憶からの情報の流れによって起きる視覚経験は「心のイメージ・心像」と呼ばれますが、この2つをごちゃまぜにすることは、相当酔っ払っていないでもない限り、そうありません。
視覚経験の場合、それが現実に見ているものか、想像上のものなのかの区別はほぼ間違いなくできますね。
ところが、感情経験はまるで事情が違う、といわれています。
外界からの情報の流れによって起きる感情経験は「感情」といわれ、
記憶からの情報の流れによって起きる感情経験は「予感応」と呼ばれますが、この2つをごちゃまぜにすることは、それこそ世界中 至るところで、当たり前に起きていると指摘されているのです。

「感情」と「予感応」の区別がつかなくなる例①
その例として、このような調査が紹介されていました。
それは、アメリカ国内のさまざまな地域に住む人たちに電話をして、現在の生活にどれだけ満足しているか尋ねた、というものです。
すると、その日たまたま天気がよかった地域の住民は、自分の生活を思い浮かべて幸せだと報告する人が多く、その日たまたま天気が悪かった地域の住民は不幸せだ と報告する人が多かったとわかりました。
一見すると、回答者は、調査員の質問に答えるために、自分のこれまでの生活を思い浮かべて、そのときどんな気持ちがするかを自問したように思えます。
しかし、その日の天気が 幸せか不幸かの回答に影響を与えたということは、脳は想像上の生活ではなく、現実の天気に反応したといえますね(しかも、回答者は自分の答えが天気に左右されていることに気づいていません)。
回答者は、脳が現実に反応していることに気づかず、現実への感情(天気がよくて気分がいい・天気が悪くて気分がよくない)を 想像への予感応(思い浮かべたこれまでの生活に満足しているかどうか)と取り違えてしまったのです。
「感情」と「予感応」の区別がつかなくなる例②
これに関連した研究も紹介されていました。それは、地元のジムでトレーニングしている人に以下の質問をする、というものです。
ハイキングで迷子になって、食料も水もなしに森で一晩すごさなければならないとしたら、空腹とノドの渇きの、どちらがつらいと感じますか?
一部の回答者はランニングマシーンでのトレーニング直後に質問をして予想してもらい(渇き群)、
ほかの回答者はランニングマシーンでのトレーニング前に質問をして予想をしてもらいました(非渇き群)。
その結果、渇き群の92%が森で迷ったらノドの渇きのほうがつらいと予想したのに対して、
非渇き群でそう予想したのは61%だけだったそうです。
こちらも一見すると、渇き群の人は研究者の質問に答えるために、食料も水も持たずに森で迷子になったところを想像し、どんな気持ちがするかを自問したように思います。
しかし、渇き群のほうが非渇き群の3割も「ノドの渇きのほうがつらい」と予想したということは、脳は想像上のハイキングではなく、現実のトレーニングに反応したとわかります(しかも渇き群の人は、自分の答えがトレーニングの影響を受けていることに気づいていない)。
渇き群の人は脳がやっていることに気づかず、現実への感情(トレーニング直後でノドが渇いている)と想像への予感応(森の中で迷ったら、空腹とノドの渇きのどちらがつらいか)をごちゃまぜにしてしまったのですね。
このような経験は、私達にもあるでしょう。
あなたが最低と思える1日を過ごし(飼っているペットが家具を汚し、洗濯機は故障し、楽しみにしていたテレビ番組が別番組に急きょ差し替えれた)、とても不機嫌になっていたとします。
そんなときに、友人と翌晩にする予定のトランプがどれだけ楽しいか想像しようとしても、現実のペットや家電製品のせいで生じた感情(「ああ、思うようにいかなくて腹立たしい」)を、誤って友人への感情(「あいつはいつもズルするから、明日は行くのをやめようとかな」)だと思い込んでしまいます。
このことは、うつ状態の特徴の1つでもあるといわれています。
うつ状態のときは、未来の出来事について考えても、どうしても自分がその未来を気に入るとは思えません。
友人から誘いを受けても「休暇? 恋? 夜遊び? ううん、やめとく。暗いところでジッとしているのがいいの」などと言います。
現実の今をつらいと感じることで精いっぱいのときに、想像の未来を楽しいと感じることはできません。
ところが私達は、未来の出来事を思い浮かべたときに感じる不幸せが、現実第一主義からくる避けられない結果(今が不幸せだと感じることで、未来の出来事も不幸せに感じる)だと気づかず、思い浮かべた未来の出来事のせいで不幸せに感じるのだと 思い込んでしまうのですね。
「あなたが今 落ち込んでいるのが、いろいろよくないことがあったからだよ。でも、来週になれば気分も変わるって」と友人から言われても、とてもそのようには思えません。
このことについてギルバート教授はこう言われています。
未来を想像して、そのときどんな気持ちがするかをたしかめるのはごく自然なことだが、脳がやっきになって現在の出来事に反応するおかげで、われわれは、あすもきょうと同じように感じるだろうと、誤った結論をだしてしまう。
次回予告
私達は未来を想像している瞬間の感情が、未来にたどりついたとき抱く感情だ思い込んでいますが、その感情は、現在起こっていることへの感情反応である場合が少なくありません。
このようになるのは知覚と想像とが、同じ基盤を時間差で使っていることに起因しますが、それだけが現在主義につながる原因ではない、とも指摘されています。
次回は、現在主義となるほかの原因について見ていきます。
まとめ
- 先見の名があるといわれていた科学者・発明家でも、未来についての予測や予想は不完全・的外れであること、その誤り方には類似性(予想した未来は現在に似すぎている)があるといわれています
- 過去を思い出すときには、記憶の曖昧な部分には「きょう」という材料を使っての穴埋めが行われているように、想像するときにもまた「きょう」という材料を使っての穴埋めのトリックが使われています(いまの気持ちを元に未来の感情を予想している)
- そのために、「きょう」を切り離して未来を想像することはとても難しいのです(だから、いまが満腹だと空腹のときの自分をうまく想像できません)
- 「きょう」を抜きに未来を想像できない理由が、想像そのものの性質にあります。実際に見たり聴いたりするときだけだなく、具体物や音を想像するときにも視覚野・聴覚野という感覚領が活発になることで、具体像が浮かび上がったり音の想像ができたりします
- 感情経験の場合も同様で、私達は想像上の出来事にも感情反応します。この、未来の出来事に対するあらかじめの反応は「予感応」といわれます。予感応は、論理的思考よりも未来の感情を正確に予測できることもわかっています
- 予感応は万全ではなく、限界があります。それは、感覚領は 現実世界のものの感知が最優先されるため、現在の知覚で忙しいときには うまく未来の出来事に反応できないというものです。このため、満腹のときには、その現在の知覚を切り離して「空腹の自分」という未来の出来事に対しての感情反応が鈍くなるのです
- さらに感情反応の問題点が、現在の感情経験(感情)と、未来の感情経験(予感応)の区別ができず、ごちゃまぜにしてしまうことです。現在どのように感じているかが未来の出来事への感情経験に影響を与えているのですが、私達はそのことに気づかず、想像した感情は未来の出来事のみがもたらす感情であると思い込んでしまっているのです
続きの記事はこちら
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