ハーバード大学の人気教授 ダニエル・ギルバート氏の『明日の幸せを科学する』を通して、“脳のメカニズム”をご紹介していきます。
今回はその11回目です。
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『明日の幸せを科学する』の主題-人間は未来をどう想像しているのか
未来の自分を幸せにしたいと思いながら、幸せになれていないのは?
私達は常に「どうすれば幸せになれるのか?」を考え、
毎日、自分が幸せになるための選択をしています。
ところが、幸せになれるどころか、選択をしたことを後悔してしまうことさえあるのではないでしょうか。
それは、
「私達が未来を想像するとき、誰もが規則正しく 想像に関する共通した誤りを犯しているから」
なのです。
では、その“未来に関する共通した誤り”とは何なのでしょうか?
それについて解説されているのが『明日の幸せを科学する』です。
前回は、私達の脳の「こっそり無視する」という特徴についてお話ししました。
想像に関する誤り-脳はこっそりと無視する
私達の脳の、想像に関する1つ目の誤りは「細部をこっそり穴埋めする」こと、
そして、想像に関する2つ目の誤りが「どの想像が欠けているかほとんど気づかない」こと、といわれています。
脳は“何が欠けているか”に非常に気づきにくい
この脳のメカニズムを明らかにするために、まず、私達は「何が欠けているか、何が足りていないか」ということに非常に気づきにくい、ということが指摘をされていました。
実際に、特別な文字列の特徴を推察させるゲームをしてもらう研究において(詳細は下図を参照)、

実験協力者に次々と文字列のセットを見せながら、研究者がその中の特別な文字列を1つずつ指していき、何セット見たところで協力者は特別な文字列の特徴を推論できたかを調べました。
研究では、協力者を2つのグループに分け、
1つ目のグループでは、「T」のある文字が特別な文字列であり、各セットに1つずつだけ含まれていて、その「T」の入った文字列が指されていき、
2つ目のグループは、各セットで「T」が含まれていない文字列が特別な文字列であり、各セットに1つだけある「T」が含まれていない文字列を指していきました。
すると、1つ目のグループが、平均して34セットを見たところで特別な文字列の特徴に気づいたのに対し、
2つ目のグループでは、文字列のセットをいくつ見せられても、誰一人としてその文字列の特徴を見極めることができなかったのです。

文字があることには気づくことができても、文字がないことに気づくことは格段に難しくなり、不可能ともいえるのですね。
私達には、欠けているもの、「〇〇ではないもの」を無視する傾向があることは、これ以外にもさまざま実験で明らかになっています。
各実験の詳細については、前回の記事をご覧ください:
欠けているものを軽視・無視する傾向は、想像にも現れる
欠けているものを軽視する傾向は、想像でも現れます。
私達は未来を想像するとき、事細かに想像することなく、細部を無視しがちです。
さらにその想像しなかった細部は実際には起こらない(自分の未来の状態に影響を与えない)ものとして扱う傾向にあります。
具体例として、ヴァージニア大学で行われた研究が紹介されています。
それは、自分の大学のフットボールチームが、他大学の敵チームに勝利したら(あるいは敗北したら)、数日後はどんな気持ちでいるかを尋ねる、というものです。
その前に学生を2つのグループに分け、
1つ目のグループには、その予測を立てる前に、普段の1日に起こる出来事を描写してもらい、
2つ目のグループにはそのような描写をさせませんでした。
数日後、学生にどれくらい幸せかを尋ねたところ、2つ目のグループだけが勝敗の影響を大きく見積もっていたとわかりました。
試合に勝った-数日後にも気分が高揚していると予測したが、実際はそれほど よい気分ではなかった
試合に負けた-数日後も落ち込んでいると予測したが、実際はそれほど悪い気分ではなかった
ひいきのチームがライバルチームに勝ったとなれば、誰でも気分はよくなるでしょう。しかしその気分はいつまででもは続かないですね。
負けた場合も同様で、一時的には気分が悪くなってもずっとは続きません。
1つ目のグループは1日に起こる出来事を描写していたために、細部にまで想像が及び、フットボールチームの勝敗の影響を正しく見積もることができていました。
反対に、2つ目のグループは、チームの勝敗という、たった1つの出来事しか注目しておらず、自分の気分に影響するであろうほかの出来事を無視していたのですね。

この、細部を無視する傾向によって、私達は未来の想像に関する誤り(特定の出来事の影響を過大評価する一方、細部を無視したがために、思ったほど幸せになれなかったと感じる)を犯すのです。
今回は、先とは別の例によってわかる、脳がこっそり無視することによって起きる想像の誤り、
また、「遠くのものは小さく、きれいに見える」という脳の特徴からくる想像の誤りをお話ししていきます。
“遠くのものは小さく、きれいに見える”想像に関する誤り
脳は細部をこっそり無視する
例① カルフォルニア住民はほかの人達より幸せ?
私達は未来を想像するとき、特定の出来事の影響を過大評価し、細部は無視してしまう傾向にあることをお話ししていました。
自分が無視していることとは何なのかに気づくのも難しく(ギルバート氏はこれれを「どの想像が欠けているかほとんど気づかない」と指摘していましたね)、これによって私達は未来の出来事に対する自分の気持ちを誤って予測してしまいます。
例として、以下のことが挙げられていました。
ほとんどのアメリカ人は次のどちらかのタイプに分類できる、と、多くのアメリカ人に思われています。
- カルフォルニアに住んでいて、そのことが幸せな人
- カルフォルニアには住んでいないけれど、もし住んでいれば幸せだと信じている人
ところが研究によると、カルフォルニア住民は決してほかの人達よりも幸せ、というわけではないそうです。
ではなぜ、カルフォルニア住民がほかの人達より幸せだと、誰しもに(カルフォルニア住民も含めて)信じられているいるのでしょうか。
カルフォルニアといえば、アメリカ全土でも有数の美しい景観 と 素晴らしい気候を誇っています。
カルフォルニア住民でない人がこのことを聞くと、とたんに想像力が働いて、
- さんさんと日の降り注ぐ砂浜
- セコイアの巨木
といったイメージを作り上げるでしょう。
さんさんと日の降り注ぐ砂浜 | セコイアの巨木 |
![]() | ![]() |
しかし、いくらカルフォルニアの気候が素晴らしいといっても、気候はあくまで人の幸せを左右するたくさんの事柄の1つにすぎません。
それにもかかわらず、カルフォルニアでの暮らしを想像するときには、ほかの事柄が心のイメージからすっかり抜け落ちてしまうのですね。
心のイメージから抜け落ちているものといえば、たとえば、
- 交通量
- スーパーマーケット
- 空港
- スポーツチーム
- ケーブルテレビの料金
- 住宅費
- 地震や地すべり
など、数え切れないほどあります。
それらを心のイメージに追加すれば、カルフォルニアが他の地域に勝る点(よい気候など)もあれば、他の地域がカルフォルニアに勝る点(少ない交通量など)も多くあると気づくでしょう。
多くのアメリカ人が、カルフォルニア住民のほうがほかの住民より幸せだと考えるのは、
ほとんど細部のないカルフォルニアを想像し(砂浜や木のみ)、想像しそこねた細部(交通量や災害の多さ)が結論を劇的に変える場合がある、という事実を考慮していないからなのですね。
例② 目の見えない人はまったく何もできない? その人生は不幸?
先でご紹介したように、カルフォルニア住民の幸せを過大に見積もることは、慢性疾患や障害のある人達の幸せを過小に見積もることとも共通しています。
例えば、視覚に障害のない人は、目の見えない人のことを想像するとき、目の見えない人がまったく何もできないわけではないことを忘れてしまう、といわれています。
確かに目の見えない人には視覚情報こそ入ってはきませんが、実は目の見える人がやることはほとんどなんでもできるのです。ピクニックに行くことも、音楽を聴くこともでき、税金も払っています。
ピクニックにも行ける | 音楽も聴ける |
![]() | ![]() |
そのため、幸福感は目の見える人とまったく変わらないこともわかっています。
もちろん、目の見える人にはできるけれど、目の見えない人にはできないこともあるため、両者の人生はまったく同じではありません。
けれど、目の見えない人の人生がどんなものだったとしても、目が見えないから何もできない、ということはあり得ません。
ところが、目の見える人が目の見えない人のことを想像すると、視力を失ったということのインパクトが強いため、目が見えなくてもできることを想像できず、誤った予測をしてしまうのですね。
脳の、想像に関する誤り-遠くのものは小さく、きれいに見える
私達は物体を見るとき、遠く離れているものは、網膜に映る像が小さく、ぼんやりとして見えます。
反対に近くのものを見るときには、像が大きく、細部まではっきりと見えますね。
このように空間上で 自分に近いものは遠いものより詳細に見えるのと同じで、時間軸上でも自分に近い出来事、近い時期に起こる出来事は詳細に見えます。
対して、遠い未来はのっぺりしていて、おぼろげに見えます。
例えば、若いカップルに、「結婚」を心に描くとき どんなことを考えるか尋ねると、
式から1か月の隔たりがある場合(1か月後に結婚する場合も、1か月前に結婚した場合も)、結婚をかなり抽象的におぼろげに思い描き、
「真剣な誓いを立てる」「まちがいを犯す」といった、大づかみな説明をするそうです。
それに対して、挙式を翌日に控えたカップルは、結婚を具体的に思い描き、
「プロに写真を撮ってもらう」「特別な衣装を着る」といった説明をする、といわれています。
同様の調査として、実験志願者に、自分が明日、ドアの鍵をかけるところを想像させると、その心に描いたイメージを「鍵をシリンダー錠に差し込む」などの詳しい言葉で説明をしますが、
来年のこととして想像をしてもらうと、「戸締まりをする」などのあいまいな言葉で説明をすることがわかっているそうです。

このように私達は、遠い過去や遠い未来の出来事について考えるとき、どうしてその出来事が起きたのか、あるいは起きるのかについて抽象的に考えがちですが、
近い過去や近い未来の出来事について考えるときは、どんなふうに起きたのか、あるいは起きるのかを具体的に考える傾向にあります。
空間上で物体を見るときと、時間軸上で出来事を見るときは、遠くにあるもの(遠い過去や未来の出来事)ほど ぼんやりと見え、近くあるもの(近い過去や未来の出来事)ほどくっきり見えるという点が共通しています。
しかし、空間上と時間上とでは、1つ、重大な違いがあることが指摘されているのです。
遠い過去(未来)の出来事の誤った認識がもたらす問題
その重大な違いとは、
遠方の物体を知覚するとき、脳は、その物体がおぼろげでのっぺりして見え、細部がわからなければ、遠くにいるせいだと気づきます。
物体そのものがおぼろげでのっぺりしているとは、とても思いませんね。
ところが、時間軸上で遠い出来事を思い出したり想像したりするとき、脳は、細部がわからないのは時間軸上の隔たりのせいだということを見逃す、といわれています。
遠くの出来事も、自分が想像したり思い出したりしたとおり、その出来事はもともと「おぼろげで、のっぺりしているもの」と結論づけてしまうのです。
なぜ約束をしたことを後悔してしまうのか?
たとえば、何か約束をしたとき、それを果たす段階になると、「なんでこんな約束をしてしまったのか」と深く後悔してしまったこと、
なぜ自分はいつも、約束したことを後悔するのだろう、と考えられたことはないでしょうか。
約束した時点では魅力的に思えていたのに、いざ約束を果たす段階になると、その魅力が色あせてしまったように感じるのですね。
例として、ある人が、来月、姪と甥の子守りをする約束をしたとします。約束したときは、手帳にわざわざメモをするくらい楽しみにしていました。
それが、実際にいろいろと準備をしたり(姪や甥へのおもちゃを買う、食事の支度をする、部屋の片づけをする)、子守りと同じ日に別の楽しげなことをするのをあきらめなければならない段階になると、
「子守りを引き受けたとき、自分はいったい何を考えていたのだろう」
とさえ思ってしまいます。
子守りを引き受ける前は、自分の想像している子守りは細部なしのイメージであり、やがて経験することになる細部だらけの子守りを考慮していなかったのですね。
ぼんやりと見えた、来月にすることになる子守りは「愛の行為」ですが、
今、この瞬間にやっていることは「食事の支度をする行為」や「部屋の片付けをする行為」であり、あまりにもかけ離れたもののように感じるのです。

いよいよ細部が目に入ったとき、私達は驚く(=それまでは、細部を考慮していないことにも気づかない)
実行するとやたらと目につく子守りのざらざらした細部(玩具・食事・片づけなど)が、ひと月前に心に描いた子守りのイメージに含まれていないのは仕方のないことかもしれません。
しかし、細部がいよいよ視野に入ると、私達はどれだけびっくりするかは驚くべきことですね(それまでは、細部を考慮していなかったことにまったく気づかなかったと気づくからです)。
空間上では、遠方にあるものはおぼろげに見えますが、それは実際にはおぼろげではないことも、遠くにあるからおぼろげに見えるだけなのも私達はわかっています。
ところが、時間軸上で遠く離れた出来事のことになると、おぼろげに見えるものが正しい認識であると思い込んでしまいます。
それについて、このような実験も紹介されていました。
実験志願者に「いい一日」を想像するように指示すると、「いい一日」が1年後の場合より 明日の場合のほうが、より多様な出来事を想像します。
その想像の中には、だまのあるケーキ生地のように、
たっぷりのいいこと(「ゆっくり起きて、新聞を読んで、映画に行って、親友に会うかな」)だけではなく、
少々の嫌なつぶつぶ(「でも、あのむかつく落ち葉をかき集めなくちゃならないかも」)が混じったものになりますね。
一方で、来年の「いい一日」は、幸せなエピソードだけのなめらかなピューレのように想像されます(実際にあるはずの嫌な出来事は想像されない)。
そればかりか、心に描いた近い未来(明日のいい一日)と遠い未来(1年後のいい一日)のイメージがどれくらい現実的だと思うか尋ねると、みんな、「来年のなめらかなピューレ」が「明日のだまのある生地」とまったく変わらず現実的だと答える、ということわかっているのです。
「近い未来の喜び・痛み=大きい、遠い未来の喜び・痛み=小さい」という思い込み
近い未来の出来事は細部まで想像することで、遠い未来の出来事がもたらず喜びや痛みより大きいものと想像する、ともいわれています。
これによって私達はやや奇妙な行動をとることもあるのです。
ある研究によって、私達の近い未来・遠い未来にまつわるその行動傾向が指摘されています。
あなたは、
- 364日後に19ドル受けとる
- 1年後(365日後)に20ドル受けとる
ことが提示された場合、どちらを選択肢を選ぶでしょうか。
たいていの人は、「1年後に20ドル受けとる」ことを選ぶでしょう。「1日待って1ドル多くもらえるのなら、1日くらい待ったほうがいい」と合理的に考えるはずです。
では、
- 今日、19ドルを受けとる
- 明日、20ドルを受けとる
ことが提示された場合、あなたはどちらを選ぶでしょうか。
これも合理的に考えれば、「1日待って1ドル多くもらえるなら、待ったほうがいい」と思って、「明日、20ドルを受けとる」ほうを選びますよね。
ところが、たいていの人は、「明日、20ドルを受けとる」より、「今日、19ドルを受けとる」ほうを選ぶ傾向にあった、といわれています。
なぜこのような傾向が出たのでしょうか。
近い未来で1日 報酬をもらえないことへの痛み(すぐに報酬を受けとれることへの喜び)は、遠い未来で1日 報酬がもらえないことの痛み(1日早く報酬を受けとれる喜び)よりも大きな苦痛(大きな喜び)に感じるからですね。
反対に、遠い未来に起こる一日の遅れは、そこまでたいして不便には見えないから、1日後に報酬を受けとることを選べるのです。
1日待つこと自体の痛みは、今現在から近かろうが遠かろうが、同じように感じるはずです。
それにもかかわらず、人は近い未来の痛みがとても激しいと想像し、遠い未来の出来事の痛みはおだやかなものと想像するのですね。

近い未来の報酬は脳を活性化させる
この傾向は脳科学的にも裏づけがあります。
近い未来に金銭の報酬を受けとる想像をすると、脳の主に快い興奮を生じさせる部分が活性化すること、
その一方で、遠い未来に同じ報酬を受けとるところを想像しても脳のその部分は活性化しないことが研究でわかっているそうです。
このように、私達の未来の想像は、その細部がすっかりと抜け落ち、ぼんやりとしている・その出来事に伴う喜びや痛みを誤って見積もっているにもかかわらず、
それが正しい想像と認識しているため、私達はさまざまな誤りを犯してしまっているとわかります。
これが、「遠くのものは小さく、きれいに見える」という脳の特徴と、それがもたらず想像の誤りについてでした。
次回は、脳の想像に関する欠点の別面-保守的すぎるがゆえに想像の誤りを犯す-ことについてお話ししていきます。
まとめ
- 私達は未来を想像するとき、特定の出来事の影響を過大評価し、細部は無視してしまう傾向にあります。しかも想像が欠けていることにはほとんど気づかないことも指摘されています。
- 多くのアメリカ人がカリフォルニア住民のほうが幸せだ考えたり、視覚に障害のない人が目の見えない人を自分よりずっと不幸だと考えたりするのは、想像しそこねた細部(カルフォルニアの交通量や災害の多さ、目の見えない人はほとんどのことができるなど)が結論を劇的に変えうるという事実を考慮していないからなのです
- 私達はのっぺりとぼんやりしたものを見たとき、それが遠く離れているからと気づきます。しかし遠い未来のことを想像するとき、それがおぼろげで、のっぺりしている抽象的なものであっても、もともと「おぼろげで、のっぺりしているもの」と結論づけてしまいます
- 約束した時点では魅力的に思えても(例として、子守りを引き受けたことを紹介しました)、いざ約束を果たす段階になると、それまではのっぺりしていた細部(特に嫌な部分)がはっきりしてくるので、「なんでこんな(魅力的でない)約束をしてしまったのか」と後悔するのです
- 近い未来の出来事は細部まで想像するため、遠い未来の出来事がもたらす喜びや痛みより大きいものと考える傾向にある、ともいわれています。近い未来で1日 待たないと報酬をもらえない痛みは、遠い未来の痛みよりも大きな苦痛と感じるので、私達は合理的に考えれば損をする選択肢(明日20ドル受けとるよりも、今日19ドルを受けとる)を選んでしまいます
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