ハーバード大学の人気教授 ダニエル・ギルバート氏の『明日の幸せを科学する』を通して、“脳のメカニズム”をご紹介していきます。
今回はその8回目です。
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『明日の幸せを科学する』の主題-人間は未来をどう想像しているのか
未来の自分を幸せにしたいと思いながら、幸せになれていないのは?
私達は常に「どうすれば幸せになることができるのか?」を考え、毎日、未来の自分を幸せにするための選択をしています。
ところが、幸せになれるどころか、選択をしたことを後悔してしまうことさえあります。
それは、私達が未来を想像するとき、誰もが規則正しく 想像に関する共通した誤りを犯しているから、といわれています。
では、その想像に関する共通した誤りとはどのようなものなのか、
それについて解説されているのが『明日の幸せを科学する』です。
前回は、「幸せの測り方」についてお話をしました。
本来、測定不可能な「幸せ・幸福感」を測定する際の3つの前提
『明日の幸せを科学する』の著者であるダニエル・ギルバート氏は“測定できないもの、数量化できないものは科学的に研究できない”といわれています。
※これはギルバート氏だけの見解ではなく、大半の科学者の意見と一致するものです
幸福は主観的な経験であるため、測定の妥当性と信頼性に絶対の自信を持つのは難しい、ともいわれています。
しかし、幸福の科学的研究は不可能ではありません。
ただ、それには、以下の3つの前提を受け入れる必要があります。
前提① 道具の不完全さを認める
幸福という主観的な経験ではなくても、今現在、科学者が対象を測定するのに使っている計器では、その測定に ある程度の誤差はつきものです。
まして、幸福を対象にする場合、完璧さを求め過ぎれば、測定値はすべて排除すべきものとなるため、多少の曖昧さは大目に見るべき、といわれています。
前提② 当事者のその場その場の報告を基準とする
幸福の測定方法には、生理機能測定や磁気共鳴映像法など、厳密で科学的な方法があります。
しかし、人がどう感じるかを知るのに、決定的な見地から観察できるのは、その気持ちを抱いている本人しかいません。
当事者の「幸せだ」という主張がなければ、ほかのあらゆる測定結果は幸福の基準になり得ないのですね。
そのため、本人の主張こそが、幸福かどうかの判断基準であるといわれています。
前提③ 「大数の法則」に従い、何度も測定する
当事者の報告を幸福の判断基準とすれば、報告内容と、実際に抱いている感情とに乖離があるかもしれない、という問題が出てきます。
たとえば、1億円を手にして「これ以上ない喜びだ」と言っているにもかかわらず、内心はそれほど喜んでいなかったり、
リボルバーをプレゼントされた人が「それほど嬉しいものではない」と言いつつも、実際は天にものぼる心地であった、ということがあるかもしれません(ほぼあり得ないことではありますが)。
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その不備を解消するために用いられているのが「大数の法則」です。
大数の法則とは、「少数がやれることをもっとたくさんするだけで、何かちがうことがやれる」ことだと説明をされています。
具体的には、幸福かどうかの報告をする対象者が数百、数千、数万と増えていけば、互いの報告の不完全さを打ち消し合うので、だいたい正確な結果を得ることが可能です。
(先の例でいえば、1億円をもらった喜びのほうが、リボルバーをもらった喜びよりも大きい、と言っている人の数がかなり多ければ、実際に抱いている喜びの感情も1億円もらったときのほうが大きいだろうと推察できる、ということですね)
幸福という主観的な感情を、科学者が望むような正確さで測定すること、寸分の狂いもなく測ることは無理なことですが、これら3つの前提に立てば、許容できるレベルまでは幸福感の測定ができるのです。
前回の詳細はこちら

今回から、この3つの前提を踏まえて、
- 何が未来の自分を幸せにしてくれるのか
- 幸せになるための選択をしているのに、なぜ、そのための選択肢を見分けられずに後悔してしまうのか
をご紹介していきます。
誤った想像をしてしまうのはなぜ?“感覚のトリック”がもたらす記憶と知覚の誤り
私達は日々、「もし〇〇だったら どんな気持ちだろう」と想像しながら過ごしています。
- 誰と結婚するか
- どこで働くか
- いつ子供をもうけるか
- どこで老後を過ごすか
などを決めるとき、
「もし、この人とこの場所で、このようなことをしたらどんな気持ちになるか(あるいは、あの人とあの場所で、あのようなことをしなかったらどうなるのか)」を想像し、それに重きをおいて決定を下しています。
「この仕事につけば幸せになれそうだ(あの仕事では幸せになれない)」
「Aさんと一緒に暮らせば幸せになれるはずだ(Bさんとでは幸せになるのは難しそうだ)」
「この場所に住めば楽しく過ごせそうだ(あの場所では、いつまでも楽しく過ごせそうにない)」
など、私達は未来に目を向けてシミュレーションをすることができます。それをもとに選択をしているのですね。
ただし、1つ落とし穴がある、とギルバート教授は指摘をしています。
それは、私達が想像した未来の気持ちと、実際に体験したときの気持ちに相違がある、ということです。
私達は未来を想像するときに、実は根本的な間違いを犯しており、この間違いのせいで、誤った未来を選んでしまっているのです。
では、未来を想像するときに犯す間違いとは何なのでしょうか。
想像の1つ目の間違い・欠点を理解するときには、
記憶(過去を見せてくれる能力)と
知覚(現在を見せてくれる能力)の欠点を理解すること、といわれています。
想像というのは、過去の記憶や現在の経験を軸として行われるため、
過去を誤って記憶させたり、現在を誤って知覚させたりする欠点こそ、未来を誤って想像させる欠点そのもの、といえるのですね。
そして、この欠点を引き起こしているものは、脳が毎日・毎時間・毎分しかけてくるトリックにほかならない、ともいわれています。
それでは脳は、私達にどのようなトリックをしかけているのでしょうか。まず、脳はどのように記憶をしているかを見ていきましょう。
脳は記憶をでっち上げている?無意識に行われる「記憶の穴埋め」
先でもご紹介したように、
脳は、経験を、そっくりそのままの形で保存をしているわけではありません。
もし、すべての経験をそのまま脳が記憶をしているなら、とても容量が足りなくなってしまいます。
そのため脳は、保存ができるように、私達の経験を圧縮して、まずは、
概要を表す言葉(例:ディナーはがっかりだった)や、
少数の特徴(例:硬いステーキ、コルクくさいワイン、横柄はウェイターなど)
といった、数本の重要な糸だけにします。
それから、のちのち思い出したくなったら、脳は大量の情報をすばやくでっち上げ、私達はそれを記憶として経験する、といわれています。
このでっち上げはすばやく無理なく行われるため、すべてのものが常に頭の中にあったかのような錯覚(「私は経験を正確に記憶していた」)を起こす、と説明されています。
記憶は簡単に塗り替えられる-実験①
思い出したすべてのものが頭の中にあったというのは錯覚で、実は脳がでっち上げをしていることは、さまざま実験で明らかにされています。
その1つが詳しく取り上げられていました。
志願者に一連のスライドを見てもらいます。
それは、赤い車が<徐行>の標識へ向かって走り、右折し、歩行者を跳ねるまでを撮ったものです。
その後、一部の志願者には何も質問をせず(質問なし群)、
残りの志願者には「赤い車が<一時停止>の標識で停まっていたとき、別の車が通りましたか?」という質問をしました(質問あり群)。
次に、すべての志願者に2枚の写真を見せて(1枚は赤い車が<徐行>に近づいている写真、もう1枚は赤い車が<一時停止>に近づいている写真)、
さっき見たスライドはどちらだったかを尋ねました。
志願者が経験を正確に、記憶に保存していれば、赤い車が<徐行>に近づいている写真を選ぶはずですね。
確かに、質問なし群の志願者の90%は<徐行>に近づいている写真を選びました。
ところが、質問あり群の志願者の80%は、車が<一時停止>に近づいている写真を選んだのです。
このことから、脳が経験をそのまま取り出しているということはなく、質問によって経験の記憶が塗り替えられたのは明らかですね。
このような実験をはじめ、出来事のあとで得た情報によって記憶が改変されることは何度も繰り返し再現されているため、
ほとんどの科学者は以下の2点を信じるようになっている、といわれています。
- 記憶行為には、保存されなかった細部の「穴埋め」が必要である
- 穴埋めは苦もなく瞬時に行われるため、私達はたいてい、その穴埋め作業に気づかない
この穴埋め現象はとても強力であり、「だまされるものか」と思っていても阻止できないのです。
記憶は簡単に塗り替えられる-実験②
記憶の細部の「穴埋め」現象に関して、単語リストを使った実験も紹介されていました。
それは、以下のような単語リストを読んでもらい、読み終えたらすぐにリストから目を離す(あるいは手で隠す)というものです。
<単語リスト>
ベッド 起きる いびき
休息 いねむり 昼寝
目覚め 毛布 平安
疲れ うたた寝 あくび
夢 まどろみ 睡魔
その後で、次に示す単語のうち、先のリストにない単語はどれかを答えてもらう、というものです。
ベッド うたた寝 眠る ガソリン
正解が「ガソリン」だとは、いち早く気づかれるでしょう。
ところが、正解はもう1つあったのです。
それは「眠る」です。実は、「眠る」という単語は、最初に見せたリストの中にはありませんでした。
たいていの人は、リストに「ガソリン」がないことはわかっても、
「眠る」はあった、と誤って記憶しているのです。
この記憶の仕組みについて、以下のように説明されています。
リストの単語はどれも密接に関連しているため(先のリストの単語はみな、眠りに関連しています)、あなたの脳は、読んだ単語の1つ1つを保存するかわりに、要点だけ(「眠りに関する単語の集まりだな」)を保存していました。
要点だけを保存することは、記憶の容量を小さくするのに適しています。
しかし脳が経験を思い出すときには、要点を暗に示してはいるけれど、実際にはリストにはない単語(すなわち「眠る」という単語)を、誤って作り出してしまったのですね。
この単語を使った実験は、「眠り」に関連するもののほかにも、さまざま単語リストで何十回と行われ、2つの驚くべき結果が得られている、ともいわれています。
それは、
- 人々は要約語(先の実験の場合は、実際にはリストにはない「眠る」という単語)を見たとぼんやりと思い出すわけでも、たぶん見ただろうと推測しているわけでもなく、要約語を見たことを鮮明に記憶していて、間違いなくあったと確信を持っている
- この現象は、事前に注意をうながしても起こる
ということです。
実際には見えないものを見ている?まったく気づかない「知覚の穴埋め」
いま見ているものにも穴埋めのトリックが仕掛けられている
過去の思い出の空白を満たそうとする、強力で感知できない穴埋めは、現在の知覚にも同じように勢力をふるう、といわれています。
その1つとして、「盲点」があげられています。
盲点とは、目の網膜の裏の、視神経が脳に向かって伸びている場所1点のことです。
視神経が集まって眼球から出ていくその1点は、像を処理することができないので“盲点”と呼ばれています。
この盲点には視覚受容器がないため、ここに結ばれた像は、決して見ることができないのです。
しかし、あたりを見回しても、どこにも黒い穴があいている様子は見られないでしょう(本当に壁に黒い穴があいているのでなければ)。
盲点にあたる像は見えていないはずなのに、なぜ黒い穴は見えないのでしょうか。
それは、脳がまわりの情報をもとに、盲点が盲点でなければ見るだろう妥当な映像を推測して、視野の穴埋めをしているからなのです。
そう、脳は映像を生み出し、つくり出し、でっち上げているのですね。
脳は、欠けている情報の性質をできる限り妥当に推測して、視野の穴を勝手に埋めています(そのため、視野の穴埋めが行われている意識は私達にはまったくありません)。
穴埋めのトリックは聴覚にも仕掛けられている
穴埋めのトリックは視覚だけに限られたことではない、と指摘されています。
聴覚についても同じように、無意識に穴埋めがされることがわかっています。
それは、「eel(ウナギ)」という単語の直前に咳(*で表します)を録音した音を使った研究でわかります。
研究の志願者は、
The *eel was on the orange(オレンジに*eelがついていた)
という文を聞いたとき、
The “p”eel(=皮) was on the orange(オレンジに“皮”がついていた)
と聞き取り、
The *eel was on the shoe(靴に*eelがついていた)
という文では、
The “h”eel was on the shoe(靴に“かかと”がついていた)
と聞き取ったそうです。
英語の場合、2つの文の違いは最後の単語(orange か shoe)だけであり、文末まで待たないと「*eel」に欠けている情報を補うことはできません。
しかし脳はこれ(聞いていない音の穴埋め)をやってのけるのですね。
しかも何の苦もなく瞬時にやってのけたために、志願者の耳には欠けている情報が正しい位置で発言されるのを確かに聞こえた、と錯聴するのです。
このように脳は、実際に見えていないものの穴埋めや、
実際に聞こえていない音の穴埋めを瞬時に行っていることを見てきました。
この脳のトリックがわかれば、
私達は自分の見ているものが「自分にはそう見えているだけで、実際にそのとおりのものがあるとは限られない」と気づくはずです。
しかし私達は、この脳のトリックを詳しく理解しても、トリックがきかなくなることはなく、常に引っかかってしまう(自分の見ているものが間違いなく正しい、と思ってしまう)のです。
物事がいつも自分の見ているとおりでないとわかっていても、
外見どおりだと思ってしまうのはなぜでしょうか。
見えているものは写真ではなく肖像画?「実在論」と「観念論」
脳のトリックを知りながらも、自分の見ているとおりだと思い込んでしまう…。
その理由が「実在論」と「観念論」から説明されていました。
「実在論」とは、
物事は心に現れるままの姿で現実に存在する
という考えのことです。いわば、自分が見たものがすべて、ということですね。
外界の事物に関する情報は、そのまま感覚器官を通って心に流れ込む、と考えられてきました(18世紀にドイツの哲学者 イマヌエル・カントが新たな論を提唱するまで)。
それに対して「観念論」とは、カントが提唱した論で、
知覚は、
目が外界の像を何らかの方法で脳に伝達する生理的過程の産物ではなく、
目が見るもの(=感覚情報)と、私達が考え・感じ・知り・望み・信じているものを結合させ、現実の知覚を組み立てる心理的過程の産物である
といわれています。
例えるなら、知覚は写真ではなく肖像画である、ということですね。
さらにその形態は描写させるものを反映しているだけでなく、画家の筆致をこと細かに表しているのです。
私達は、現実そのものを認識しているのではなく、
見たもの(=写真)と、もともとの思考・感覚・知識・信念(画家の筆致)とを結合させたもの(=肖像画)を認識しているのですね。
人間は実在論から始まり、観念論へと移行する
1920年代、スイスの心理学者 ジャン・ピアジェは、幼い子どもが、物事の実際の性質と自分の知覚とを区別できないことに気づいた、といわれています。
つまり、子どもは、物事が本当に見えているとおりだと考え、ほかの人も自分と同じように見えていると信じる傾向にあるのです。
自分が見たものがすべてに共通している、と考えるのですね。
もちろん、子どもは成長するにつれて実在論から観念論へと移行していきます。
そして、自らの知覚はたんなる視点にすぎず、自分が見ているものが必ずしもそこにあるものとは限らないこと、
二人の人がいれば、同じものに対して異なる知覚や観念を持つかもしれないことに気づくのです。
そのことをピアジェは
“子どもは思考において実在論者”であり、
“その発達は最初の実在論からの脱却にある”
と結論づけています。
実在論から完全に脱却するわけではない
しかし、大人になれば実在論はいったんは去るものの、そう遠くは行かない、ともいわれています。
大人でも状況によっては実在論者のようにふるまうことも実験でわかっているのです。
そのような実験から、大人になっても、知覚はとっさに実在論に頼るという性質があると見られています。
よって、人間の知覚については、
- 私達はまず、物事の主観的な経験が、物事の特性を忠実に表していると無意識に仮定する(自分の見たものがすべてに共通する、と思う)
- その後、(もし時間とエネルギーと能力があれば)すばやくその仮定を退けて、現実の世界が本当は自分に見えているとおりでないと考え始める
と説明されています。
実在論は永遠になくなることはなく、また、ときどきなくなるわけでもありません。
私達は見たものを信じ、その後で必要があれば、それを疑うのです。
この私達の見ている世界は、脳がでっち上げた世界でありますが、現実世界と酷似していて、よくできていることが多いです。
よって、見たものをそのまま信じてしまう私達は、それがでっち上げた世界とは気づけないのですね。
そんな私達はときに、この基本的な事実(脳は過去の記憶や知覚の穴埋めをしている、でっち上げている)を見失うことで、とんでもなく高い代償を支払っている、といわれています。
それは、穴埋めのトリックを一瞬だけ無視し、記憶や知覚の妥当性を考えなしに受け入れるときに犯す誤りと、
未来を想像するときに犯す誤りとがまったく同じであるから、と説明されています。
ではその、未来を想像するときに犯すとは、具体的にどのようなものなのでしょうか。
次回、詳しくご紹介していきます。
まとめ
- 私達は未来に向けてのシミュレーションをすることができ、それをもとに幸せになるための選択をしています。しかしそこには落とし穴があり、未来について誤った想像をしてしまうのです
その想像の欠点は、記憶と知覚の欠点と共通しています - 脳は、経験をそのまま記憶しているのではなく、経験を圧縮して、一部だけを記憶しています。そして、それを思い出す段階で、大量の情報をすばやくでっち上げているのです。
このでっち上げがすばやく無理なく行われるため、私達は自分が正確に記憶していると錯覚します - 穴埋めのトリックは、いま見ているものや聴いているものにも行われています。見ているものでいえば、盲点にあたる箇所は、脳がまわりの情報をもとに妥当な映像を推測して、視野の穴埋めを行っているのです
- 子どもは、自分が見ているものがすべてに共通している(=実在論)と信じる傾向にありますが、成長するにつれて、自分が見ているものが必ずしもそこにあるとは限らない、同じものを見ていても自分の認識と ほかの人の認識は異なる(=観念論)ことに気づきます
しかし実在論がなくなることはなく、私達は見たものを信じ、必要であればそれを疑うのです - 脳がでっち上げた世界は現実世界と酷似しているため、見たもののをそのまま信じてしまう私達は、それがでっち上げた世界であることに気づきません。私達はこの事実を忘れることにより、未来を想像するときにも同様の誤りを犯すのです
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