ハーバード大学の人気教授 ダニエル・ギルバート氏の『明日の幸せを科学する』を通して、“脳のメカニズム”をご紹介していきます。
今回はその6回目です。
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『明日の幸せを科学する』の主題-人間は未来をどう想像しているのか
未来の自分を幸せにしたいと思いながら、幸せになれていないのは?
私達は日々、「どうすれば未来の自分を幸せにしてあげられるか」と考え、そのための選択をしています。
しかし自分が幸せになれるはずの選択をし、想像した未来が実現したにもかかわらず、それほどの幸福感が得られず、選択したことを後悔してしまうことさえあります。
なぜ、幸せな未来を思い描き、それに向けた選択をしているのに、幸せになれないのか。
それは、私達が未来を想像するときに、誰もが規則正しく 想像に関する共通した誤りを犯しているからなのです。
では、その想像に関する共通した誤りとは何か、
なぜ私達は、未来の自分の考えや感情を正確に予測できないのか、
『明日の幸せを科学する』には、それについて詳しく解説されています。
前回は、「幸せ」という感情経験とはどんなものかについて、詳しくお話ししました。
主観的な感情経験を見分けることはできない
「幸せ」という言葉は、徳を積むことによる幸せ(=道徳の幸せ)や、価値判断から感じる幸せ(=判断の幸せ)という意味で使われることもありますが、ここでは、一般的に使われる「主観的な感情経験から抱く幸せ(=感情の幸せ)」という意味に限るとします。
この「感情の幸せ」について、おいしいものを食べたときのような感情経験と、誰かに手を貸したときに得られる感情経験は、(感覚的には異なる感情経験としか思えませんが)実は見分けることができない、といわれています。
それは、2つの経験を同時に並べて比較することはできないからです。できたとしても、よくて経験中のことと過去の経験の記憶との比較ですね。
経験の記憶はいい加減
しかし残念ながら、過去の記憶はいい加減で、あてになるものではないのです。
一例として、色見本を見せられ、30秒の時間をおいた後、30秒前に提示した色を含む6種類の色見本を見せ、最初の色見本と同じものを選ばせた、という実験がありました(一部の実験協力者には、30秒の間、最初の色見本の特徴を口頭で説明してもらいました)。
すると、最初の色見本と同じ色を選んだ人は、73%に過ぎませんでした。
さらに30秒の間、色を口頭で説明した人たちで正しく選べたのは33%だったのです。
経験を言葉として記憶することのメリット・デメリット
私達は経験を言葉で記憶しています。
経験を言葉で記憶することの利点として、要点のみを抽出しているため、思い出すための時間が短くて済み、さらに後から分析することもできます。
また、未来への持ち込みもでき、過去の出来事を踏まえた行動の選択も可能です。
一方で、要点のみの不完全なデータであるというデメリットがあります。
先の実験で、色を口頭で説明し、自分の語った言葉で色を記憶した人の正答率がガクンと下がったことからもそれはわかりますね。
そのため、過去の経験の記憶を 現在の経験との比較に使っても、それらが同じ感情経験なのか、違う感情経験なのかの正確な判断はできないといえます。
もうあの頃の経験を純粋に評価することはできない
感情経験を見分けることができないもう1つの理由が、新しい経験をした時点で、未経験だったときの気持ちで過去の出来事を見ることはできなくなることです。
これについては、クイズを利用した実験が紹介されていました。
実験協力者にクイズ番組の問題を見せて、どのくらい正答できるかを予想させる、というものです。
その際、一部の実験協力者には問題だけを見せ、
あとの協力者には問題と答えの両方を見せました。
すると、問題だけを見た協力者は、問題がかなり難しいと考えましたが、
問題とともに答えも見た協力者は、解答を見なかったとしても正解を言っていたはずだ、と答えたのです。
このことから、いったん答えを知ってしまうと、答えを知らないときの自分にとって、問題がどれくらい難しいかを正確に判断できなくなることがわかります。
これと同様のことが経験についても当てはまります。
新しい経験をした時点で、未経験だったときの気持ちで過去の出来事を見ることはできなくなるのです(過去の経験は、取り外しが不可能なコンタクトレンズのようなものにも例えられています)。
そのため、過去の出来事と今の経験を等しく並べて、それらが同じ感情経験かどうかを公正に評価することはできないといえるのですね。
このような記憶と経験歴の観点から、自分の感情経験さえもどちらがより幸せであるか、同じ幸せであるかの見分けがつきません。
まして、他人が「幸せだ」と言うことに対して、「それは本当の幸せではない」と判断することはできないのです。
前回の詳細はこちら

では、相手が幸せであるかどうかの判断はできないとして、自分が幸せであるかどうか、どんな感情を抱いているかどうかの判断はできるのではないでしょうか。
今回は、自分自身の感情経験の判断についてお話ししていきます。
自分の感情なのに思い違う?思い込むことがある?感情の不思議なメカニズム
私達は、自分自身の感情経験を思い違ったり、実際に抱いている感情に気づかなかったりする、などということがあるのでしょうか。
それいついてギルバート教授は「いる。それは鏡の前の自分自身である」と断言されています。
自分の感情経験を思い違うことはあるのか
脳の、驚異的な情報処理速度と正確さ
私達が外界の物体を見るときに-物体の表面で反射した光が目に届いたときから、その物体を認識するまでのわずかな時間に-、脳はその物体の特徴を抽出・分析し、記憶内の情報と比較をして、
「その物体がなんなのか。どう対処すべきなのか」
の決定を出しています。
これは非常に複雑な現象であり、どんなコンピューターでも未だにシミュレーションができていない、といわれています。
しかし人間の脳は、この種の複雑な処理を驚異的なスピードと正確さでやってのけます。それは速すぎて、意識にまったくのぼらないほどですね。
脳はどう発達していったのか
このように驚異的な速度と正確さで情報処理を行う脳は、どのようにして発達していったのでしょうか。
人間の脳は、重要度の高い機能が最初に設計され、重要度の低い機能は何千年もかけて、おまけのように追加されていった、といわれています。
そのため脳は、特に大事な部分(呼吸を制御する部分など)は奥深くにあって、その上に、生き延びるためには優先度の低い部分(気分を制御する部分など)がのっている、という構造をしていますね。
これを踏まえると、物体が具体的に何であるかを認識する能力より、危険な物体であると察知して、それから速やかに逃げる能力のほうがはるかに重要であり、脳は、逃走などの行動がいち早く取れるように設計がされました。
実験によると、私達は物体に遭遇した瞬間はすぐに2、3の鍵となる特徴だけを分析し、その特徴があるかないかにもとづいて
「この物体は、今すぐ反応すべき重要なものかどうか」
という単純な決定をすばやく下すことがわかっているそうです。
獰猛な動物や危険物に出くわしたならば、瞬時に行動を起こす必要があり、その正体がはっきりとわかるまで細かく観察をしていれば、命を失いかねませんね。
ゆえに脳は、まずはじめに物体が重要であるかどうかを判断し、その後に物体の正体を判断するように設計されているのです。
物体の正体がわかる前に逃げ出せる脳の仕組み
物体の正体がわかる前に、それがとにかく危険なものとわかれば、瞬時に行動を起こせるように脳はプログラムされています。
研究によると、
物体を識別する過程の、ごく最初の漠然とした段階では、物体が恐ろしいものかどうかを判断できるだけの情報はあるものの、その物体が何なのかを判断できるほどの情報はないこと、
その限られた情報をもとに、恐ろしいものを前にしていると判断すると、脳はすぐに内分泌腺に司令を出してホルモンは分泌させ、生理的な覚醒水準を上げて(血圧の上昇、心拍数の増加、瞳孔の収縮、筋肉の緊張など)、すばやく次の行動を取れるようにする、
ということがわかっています。
この仕組みによって、脳が完全な分析を終えて物体の正体が判明する前に、身体はいつでも逃走できる状態になっているのですね。
感情経験の原因も間違えるときがある
物体の正体がはっきりしていなくても身体が覚醒するということは、自己の感情を識別する能力とも大きく関わっている、といわれています。
これについて、ある研究が紹介されていました。
それは、カナダ・ノースバンクーバーのキャピラノ川にかかる長く狭い吊り橋で行われた、若い男性の反応を調べた実験です。
(キャピラノ吊り橋 – Wikipedia より引用)
この吊り橋は川からの高さは70メートルあり、前後左右に揺れるそうです。
実験内容は、参加者の男性に女性が近づいていって、アンケート調査に協力してくれるように依頼する、
そして、アンケートが終わると、女性は電話番号を渡し、連絡をくれれば研究についてもっと詳しく説明すると伝える、というものです。
参加者の男性は2つのグループに分けられており、大きく異なる点が1つあります。
それは、女性が近づいていくタイミングです。
1つ目のグループの男性が女性と会ったのは橋を渡り終えてから、
2つ目のグループは橋を渡っている最中でした。
すると、橋の途中で女性に会った男性のほうが、後で女性に連絡をする傾向がはるかに高いことがわかったのです。
なぜこのような違いが起きたのでしょうか。
不安定に揺れる吊り橋の途中で女性に出会った2つ目のグループの男性は、生理的に極度に覚醒した状態でした。
ふつうは、「吊り橋の上にいるから、こんなにドキドキしているんだ」と認識するはずです。
ところが、質問してきた女性が魅力的でもあったため、男性はこの心理状態を恋愛感情と認識した、と説明されています(一般に「吊り橋効果」といわれる現象ですね)。
物体の正体がはっきりする前に覚醒することから、私達はその感情を、後付で、さまざまに解釈することができます。
何をその原因と捉えるかで、感情経験をどう解釈するかが決まるのですね。
先の例でいえば、ドキドキするという感情経験の原因が魅力的な女性にあると捉えることで、恐怖感を恋愛感情と解釈した、ということですね。
このように、人は自分の感情を誤解することが確かにあるのです。
何かを感じているのに、その感情に気づかないことがあるのか
自分がどんな感情を抱いているのかを思い違うことがあることは、先の吊り橋の実験でわかりました。
では、何かを感じているのに、その感情に気づかないなどということは、あり得るのでしょうか。
経験と自覚は異なる
これについて、「経験する」ことと「自覚する」こととは異なる、ということが紹介されていました。
例えば、あなたがオープンカフェでコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいたとします。
すると、ベーカリーから焼き立てのクロワッサンの香りが漂ってきたり、小鳥のさえずりが聴こえてきたりします。
パンの香りを楽しんだり、心地よいさえずりに耳を傾けたりしている最中、ふと気づくと、あなたは新聞記事の第三段落を読んでいることに気づきました。
第一段落の途中までは読んでいたことは覚えているものの、そこからパンの香りや小鳥のさえずりに心を寄せていたために、読んでいる記事の内容がわからなくなってしまったのです。
本当に第二段落は読んだのでしょうか。
目を戻してザッと確認すると、どの単語も見覚えはある。しかしその内容を覚えてはいない…、ということと似たような経験をしたことはないでしょうか。
ここで先の状況を分析すると、あなたは、新聞の第一段落の途中から第二段落を読んだことを「経験」はしていました。
けれど、自分が経験していると「自覚」していたのかと聞かれると、その答えは「いいえ」ですね。
あなたは段落を読む経験をしたからこそ、読み返したときには単語に見覚えがありました。
しかし流れるように読んでいた真っ最中に我に返ると、自覚がないことに気づいたのですね。
自覚と経験は強く結びいているが、2つを区別することはできる
経験と自覚は強く結びついているため、普段は区別はしづらい、といわれています。
たとえば、クッキーを口の中に入れると、甘みを経験し、クッキーの甘みを経験していると自覚をしますね。
何も難しいことはないでしょう。
このように経験と自覚とがいつも結びついているため、2つを区別できると聞くと、こじつけのように聞こえるかもしれませんが、先の新聞記事の例で見たように、経験はしているけれど自覚がないということはあり得ます。
たとえ自覚はしていなくても、私達は経験をしたことは覚えているのです。
目に見えないものが目に見える現象
自覚はしていなくても、経験したことは覚えている。このことは真実であることがわかっています。
例として、視覚経験のことが挙げられていました。
視覚の経験と、その経験の自覚は脳の別の場所で生じるため、自覚はなくても経験はしているといえるのです。
実際に、ある種の脳損傷によって、一方だけが損なわれてもう一方は残り、経験と自覚との結びつきがゆるむことがあります。
「盲視(ブラインドサイト)」という症状のある人は、見えている自覚はまったくなく、本心から自分は全盲であると思っているそうです。
実際に脳スキャンの結果から、視覚経験の自覚と関連するとされる部分の脳活動が低下していることがわかっています。
ところが、視覚と関連する部分の活動は正常に近いことも脳スキャンでわかっているのです。
そのため、壁のどこか1点をパッと照らし、盲視の人に今の光が見えたどうかを尋ねると、
「いいえ、見えません。私は全盲です」
と答えます。
しかし、当てずっぽうでもいいからと、どこに光が当たったかを推測するように頼むと、その推測はまぐれ当たりよりも正解率がずっと高い、といわれています。
光を経験し、光の位置を知ることを「見える」とするなら、この人は見えていますが、
見えたと自覚することを「見える」とするなら、この人は見えておらず、全盲といえるのですね。
自覚と経験の乖離は、感情の場合でも起こり得る
私達の中には、自分の気分や感情を敏感に自覚できる人もいますし、さらに、その感情の機微を表現できる人さえもいます。
一方で、もっと基本的な感情を表す語彙しか備わっていない人もいますね(「いいね」や「イマイチ」のような言葉しか使わない人)。
さらに中には、失感情言語化症(失感情症・アレキシサイミア)と呼ばれる症状の人もいます。
失感情言語化症の人に何を感じているかを尋ねると、たいていは「何も」と答え、どう感じているかを尋ねると、たいてい「わからない」と答えるそうです。
失感情言語化症は感情表現の常套句が不足しているというより、感情の状態を内省的に自覚できない症状であるといわれています。
感情はあるものの、それを自覚すること、気づくことができないのですね。
実際に、志願者にショッキングな写真を見せ、その反応を調べる実験で、失感情言語化症の人と、一般の人の生理反応に違いは見られなかったそうです。
しかし、写真の不快さを言葉で表現してもらおうとすると、その表現力は 失感情言語化症の人は一般の人より明らかに低いこともわかりました。
この失感情言語化症は、脳の前帯状皮質の機能不全から起こることがわかっています。
前帯状皮質は、内的状態をはじめとする、さまざまなことを自覚する仲介役とされる部位です。
この部分が機能不全となることで、感情を経験しながらも、それが自覚できず、表現することができなくなるのですね。
幸せだったり、悲しかったり、退屈だったり、あるいは好奇心がわいたりしても、少なくとも一部の人は、それに気づかないということがあるとわかります。
これまで見てきましたように、
現在の幸せの経験と過去の幸せの経験とが同じか違うかどうかも、
自分が経験していることが本当の幸せなのかどうかも(私達には感情の原因を誤ったり、感情を経験しているのに、まったく感じていないと思い込むことがあったりするため)、断言することはできないといえます。
その中で、自らが幸せであるかどうか、また、相手が幸せであるかどうかを判断するには、どうすればいいのでしょうか。
それがわからなければ、私達の選択が幸せをもたらしているのどうかもわかりませんね。
次回は、「幸せの測り方」についてお話ししていきます。
まとめ
- 私達は、自分の感情経験を思い違うことがあります。それは、物体の正体が判明する前でも、恐ろしいものを前にすれば、身体に生理反応を起こさせ、いつでも逃走させられるように脳が設計されていることと関連があります
- 物体の正体がハッキリする前に覚醒し、感情が生じることから、何をその原因と捉えるかで、感情経験をどう解釈するかが決まります。ドキドキする感覚を、吊り橋への恐怖ではなく、目の前の女性による恋愛感情と誤認するように、人は自分の感情を誤解することがあるのです
- また、私達には、何かを感じているのに、その感情に気づかないということがあります。それは、経験していることでも「自覚」がない、ということと関係しています
- 失感情言語化症の人は、確かに感情経験はあるものの、内的な状態を自覚するのを助ける脳の部位が機能不全になっているため、自分はなにも感じていないと思い込んでいます。このように、私達には自分の感情に気づかないということがあるのです
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