ハーバード大学の人気教授 ダニエル・ギルバート氏の『明日の幸せを科学する』を通して、“脳のメカニズム”をご紹介していきます。
今回はその5回目です。
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『明日の幸せを科学する』の主題-人間は未来をどう想像しているのか
未来の自分を幸せにしたいと思いながら、幸せになれていないのは?
私達は日々、「どうすれば未来の自分を幸せにしてあげられるか」と考え、そのための選択をしています。
しかし自分が幸せになれるであろう選択をし、想像した未来が実現したにもかかわらず、思ったほどの幸福感が得られず、それを選択したことを後悔してしまうことさえあります。
なぜ幸せになるための選択をしているのに、幸せになれていないのか。
その理由が紹介されているのが『明日の幸せを科学する』です。
その理由とは、私達が未来を想像するとき、誰もが規則正しく 想像に関する共通した誤りを犯していることです。
ではその、想像についての共通した誤りとは何なのか、
なぜ私達は、未来の自分の考えや感情を正確に予測できないのか、
『明日の幸せを科学する』には、それについて詳しく解説されています。
前回は、私達が想像する「幸せな未来」の「幸せ」とは、そもそもどんなものかについてお話をしました。
「幸せ」にも3種類ある?「幸せ」という言葉が指す意味とは
「幸せ」という言葉は多種多様な物事に使われていますが、それが実際にどんな状態を指しているかは、曖昧な理解で済ませられています。
しかしそれでは、幸せについて本質的に知ることはできません。
その「幸せ」という言葉について、ギルバート教授は、以下の3つの関連することがらを表すのに使われている、と指摘されています。
- 感情の幸せ
- 道徳の幸せ
- 判断の幸せ
①感情の幸せ
感情の幸せは、最も基本的な幸せであり、気持ち・経験・主観的な心理状態の表現のことです。
どんなときに感情的な幸せを感じるかは人それぞれであり、生じる気持ちも同じではなく、それがどんなものかを過不足なく説明することはできません。
しかし共通するものはあり、「子供の笑顔を見た」「昇進の通知を受け取った」ときなどがどんな状態なのかは、暗黙の了解で伝わります。
自分の感じている感情の幸せを言葉で定義するのは不可能ですが、それは現実のものであり、私達はそういった幸せを求めて生きているのです。
②道徳の幸せ
感情的な幸せに対して、道徳をきわめることによって得られるとされる快感が、道徳の幸せです。これは、他の動物とは異なる特別な快感と考えられています。
では、そのきわめるべき「徳」とは何か、
何をもって「徳」とするかが、哲学者によって取り組まれてきたのです。
しかし、この道徳の幸せ(徳のある人生を送ること)はあくまで幸せの「原因」となり得るもので、「幸せ」そのものではないとも指摘されています。
徳とはあくまで行動であり、幸せは気持ちを表します。
行動の結果として幸せになることはありますが、それでも「行動」=「幸せ」とはならないため、「道徳の幸せ」=「幸せそのもの」とはいえないのですね。
③判断の幸せ
感情を抜きにして、ものごとの価値判断を表すときに「幸せ」という言葉が使われることもあります。それが判断の幸せです。
「~なら」「~については」がついているかどうか、で区別できます。
(たとえば、「君が幸せなら、ぼくも幸せだよ」と言っている場合、ぼくが感情的な幸せを感じているとは限りませんね。これは、自分の価値判断から幸せと言っているのです。)
前回の詳細はこちら

今回は、このなかの「感情の幸せ」について焦点を当てて、「幸せ」という感情経験とはどんなものかについて、さらに詳しくご紹介していきます。
「今の幸せ」と「過去の幸せ」を比べることはできない-記憶と経験歴から知る、幸福測定の曖昧さ
ここから、「幸せ」という単語の意味を、「楽しい感じ」や「嬉しい感じ」のように、1つ目の「感情の幸せ(主観的な感情経験)」に限るとします(「道徳の幸せ」や「判断の幸せ」という意味では使いません)。
この「感情の幸せ」について、向かいに住むお年寄りに手を貸したときに感じる幸せは、おいしいものを食べたときの幸せと比べて、より大きく、より善く、より深い感情経験のように思いますよね。
その主観的な感情経験が同じか違うかはどうやって見分けることができるのでしょうか。
主観的な感情経験を見分けることはできない-記憶編
主観的な経験が同じか違うかは、実は見分けることができない、といわれています。
それは、異なるものから得られる感情経験の類似性をはかるには、測定者が2つを並べて経験するしかありませんが、2つを同時に並べて評価することはできないからです。
2つの主観的な経験を心のなかで比べるといっても、両方を同時に経験することはできず、よくても一方は経験中で、もう一方は過去の経験の記憶に過ぎません。
「どちらの経験のほうが幸せか?」
「2つの幸せは同じなのか?」
などど聞かれても、現在している経験と、過去の記憶とを比較するのが精いっぱいなのですね。
過去の経験の記憶が正確なもの、あてになるものであれば、2つを同時に経験しなくても、比較することは可能です。
しかし私達の記憶は曖昧で、いい加減なものであることが実証されています。
経験の記憶はいい加減
ある研究で、色見本を実験協力者に提示し、5秒間、じっくりと見せました。
つぎに、一部の協力者には30秒間、その色について口頭で説明をさせ、残りの協力者にはさせませんでした。
その後、30秒前に提示した色を含む6種類の色見本を見せ、最初の色見本と同じものを選ばせたのです。
実験の結果、口頭での説明をさせなかった人たちで、最初のものと同じものを選んだ人の割合は、73%に過ぎませんでした。
30秒前の経験と、同じ経験を選べる人は全体の3/4に満たないということですね。
さらに興味深い結果は、色を口頭で説明した人たちで正しく選べたのは、わずか33%だったことです。
口頭で説明したために、経験そのものが書き換えられ、経験したことではなく、経験について語ったことを記憶してしまった、と考えられます。
語った内容は、30秒後に再び見て、それを気づく助けになるような、正確なものではなかったのです。
経験を言葉として記憶することの便利さと短所
私達は自らの経験を<言葉>で記憶しています。言葉は、経験の要点を抽出して、記憶するのを助けてくれます。
そのおかげで、後で分析したり、人に伝えたりできますね。
豊かで複雑で多元的な経験そのものを脳に記憶しようとすれば、今の数倍は大きな頭が必要になる、といわれています。
映画でたとえると、経験を映画そのものとするなら、言葉としての記憶は映画の批評やあらすじにあたります。
映画そのものを保存しようとすれば相当な容量が必要ですが、批評やあらすじであれば、そのデータ量はわずかですね。
また、もし経験そのものを記憶するなら、何を思い出すにも、その出来事にかかった時間とまったく同じだけの時間が必要になり、日常生活に支障が出てしまいます。
そのため私達は、経験を「幸せ」といった言葉に圧縮し、経験をそれなりに表現しているのですね。
そうすればその経験を、手軽に着実に未来へ持っていくことができます。
バラの香りがどんな香りであったのかを蘇らせることはできませんが、「よい香り」や「甘い香り」であることを記憶していれば、次の機会には立ち止まって、香りをかごうと思えるのですね。
このように、過去の経験の記憶とは、経験そのものではなく、言葉でその要点を覚えているものなので、不完全なものです。
先の研究で、色を口頭で説明したことで、経験について語ったことを記憶し、経験そのものとの齟齬が生じたことからも、それはわかります。
そのため、古くなった幸せの記憶と、新しい幸せを比較して、主観的な経験が本当に違うかどうかを判断しようとしても、それは正確な判断とはいえないのですね。
主観的な感情経験を見分けることはできない-経験歴編
過去の経験は言葉として記憶しているため不完全であり、それゆえに2つの感情経験を見分けることはできません。
感情経験を見分けることができない理由はほかにもあります。
これについて、ある研究が紹介されていました。
それは、実験協力者にクイズ番組の問題を見せて、どのくらい正答できるか予想させるというものです。
一部の協力者には問題だけを見せ(問題のみ群)、あとの協力者には問題と答えを見せました(問題‐解答群)。
協力者に見せる問題は、たとえば、
問題:フィロ・T・ファーンズワースは何を発明したか?
答え:テレビ
というものです。
問題のみ群の協力者は、問題がかなり難しいと考えましたが、問題と答えの両方見ることができた問題‐解答群の協力者は、解答を見なかったとしても簡単に正答できたはずだと感じたのです。
このことから、いったん答えがわかると問題が簡単に思えてしまい、答えを知らない人にとって(あるいは、答えを知らないときの自分にとって)この問題がどれくらい難しいか判断できなくなる、とわかります。
これと同じことが経験についても当てはまります。
いったん経験してしまうと、それを脇において、未経験だったときのまっさらな気持ちで世界を眺められなくなるのですね。
経験はすぐに、過去・現在・未来を眺望するレンズの一分になる、といわれています。
そのレンズによって、私達の物事への見方は変わり、見ているものをゆがませもします。
しかもこのレンズは、好きなときに外してベッド脇における眼鏡のようなものではなく、
強力な接着剤で目玉に貼りついているコンタクトレンズのようなもので、いったん経験すれば、経験前の状態で物事を見ることは決してできなくなるのです。
新しい経験をした人が、「あのときは幸せだと思いもしたし、言いもしたけれど、本当の幸せではなかった」と発言したしても、それが思い違いの場合もある、ということですね。
新しい経験をした時点で、未経験だったときの気持ちで過去の出来事を見ることはできなくなるのです。
もうあの頃の経験を純粋に評価することはできない
新しい経験をすると、経験のレンズを通してでしか過去を見ることができない例として、『明日の幸せを科学する』の著者であるダニエル・ギルバート氏自身の、葉巻とギターのことが挙げられていました。
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葉巻を好んで吸っている人は、葉巻を吸わない人に対して「あなたは葉巻を吸ってないから、葉巻を吸うことが本当に幸せだということがわからないんだ」と思います。
しかし、葉巻を吸う人は、葉巻の楽しみを知ったことで経験歴が変わってしまい、葉巻を吸わなかった過去がどれくらい幸せであったのかを純粋に評価することができません。
また、ギターに関しては、ギターの演奏が上達すると、スリーコード(3つのコードのみが使われること)のパートが長い曲を弾いても、あまり楽しくなくなってきます。
ところが、ギターを始めたばかりの頃は、3つのコードをかき鳴らすことで大満足していたそうです。
ギターが上達した今からすれば、3つのコードしか使えなかった過去は、ギターの演奏による本当の幸せを知らなかった、と見ます。
しかし上達したことで、上達前の自分がどれくらい幸せだったかは、適切に評価できているとはいえないでしょう。
このように私達は、新しい経験をすることで取り外し不可能な経験のレンズをかけてしまうので、過去の出来事と今の経験を等しく並べて、公正に評価することはできないのですね。
このことをギルバート氏は、
思ったことや言ったことを覚えているかもしれない(覚えているとはかぎらない)し、やったことも覚えているかもしれない(これも覚えているとはかぎらない)が、経験を完全によみがえらせて、過去のその時点でくだしただろう評価と同じ判断をする可能性は、悲しいほど低い。
と語っています。
結論-自分の「今」と「過去」の感情経験さえ見分けがつかない。まして他人の幸せを正答に評価はできない
記憶と経験歴から、自分の経験したことでさえも、それが本当に幸せなことかどうかは評価できないことをお話ししてきました。
自分の感情経験さえも見分けがつかない。まして、他人が「幸せだ」と言うことに対して、「それは本当の幸せではない。あなたは本当の幸せを知らない」と言うことはできないでしょう。
自分のレンズを通してしか、相手の経験していることを評価できないからですね。
また、相手の経験歴のほうが素晴らしく、相手の経験のレンズを通して見るほうが、自分の経験のレンズを通して見るよりもずっと豊かに物事を見ることができる可能性もあります。
そうなれば、相手の言う幸せを、「それは幸せではない」と決めつけることは、とてもできないのですね。
では、相手の幸せであるかどうかを判断するのはできないとして、自分自身が今、どんな感情を抱いているかはわかるのではないでしょうか。
先に見たように、過去の経験での幸せと、今の経験での幸せを比較しても、過去の言葉としての記憶は曖昧であるため、それが同じ経験といえるかどうかはわかりませんね。
しかし、今抱いている感情を思い違える、ということはさすがにないのではないでしょうか。
次回は、自分自身の感情の経験の思い違いについてお話ししていきます。
まとめ
- おいしいものを食べたときのような感情経験と、誰かに手を貸したときに得られる感情経験は、実は見分けることができない、といわれています。それは、2つの経験を同時に並べて比較することはできないからです
- 現在している経験と、過去の経験を同時に並べて比べることはできず、できても経験中のことと、過去の経験の記憶との比較です。しかも過去の記憶はいい加減で、あてになるものでもありません。それは、過去の経験を言葉で記憶しているからです
- 経験を言葉で記憶することの利点として、要点のみを抽出しているため、思い出すための時間が短く、後から分析することもできる点、未来への持ち込みもできる点が挙げられます。一方で、要点のみの不完全なデータであるため、現在の経験との比較に使っても、正確な判断はできないといえます
- 感情経験を見分けることができないもう1つの理由が、新しい経験をした時点で、未経験だったときの気持ちで過去の出来事を見ることはできなくなることです
- 記憶と経験歴の観点から、自分の感情経験さえもどちらがより幸せであるか、同じ幸せであるかの見分けがつきません。まして、他人が「幸せだ」と言うことに対して、「それは本当の幸せではない」と判断することはできないのです
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