ハーバード大学の人気教授 ダニエル・ギルバート氏の『明日の幸せを科学する』を通して、“脳のメカニズム”をご紹介していきます。
今回はその4回目です。
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『明日の幸せを科学する』の主題-人間は未来をどう想像しているのか
未来の自分を幸せにしたいと思いながら、幸せになれていないのは?
私達は日々、「どうすれば未来の自分を幸せにしてあげられるか」と考え、そのための選択をしています。
「明日の自分がどうなろうと関係がない。今さえ楽しければいい」と思って、一時的な快楽を得るための選択をする人はまれだと思います。
しかし、未来の自分が幸せになるであろう選択をし、想像していた未来が実現したにもかかわらず、思ったほどの幸福感が得られない、それどころか、手に入れたものを不要とさえ感じることがあります。
なぜ私達は幸せになるための選択をしているのに、想像したとおりの幸せになれていないのか、
『明日の幸せを科学する』には、その理由が紹介されています。
その理由とは、私達は未来を想像するとき、誰もが規則正しく 共通した誤りを犯しているからなのです。
では、未来を想像するときの共通した誤りとはどのようなものなのか、
なぜ未来の自分の考え・感情を正確に理解することができないのか、
それらを学ぶことで、今後の自分の選択をよりよいものしていくことができるのです。
前回は、私達が未来について考える最大の理由とは何か、についてお話ししました。
未来について考える最大の理由
私達は一日の多くの時間を未来について考えることに使っているほど、未来を考えるのが好き、といわれています。
未来を想像するのが好きな理由には、
楽しい未来を想像することで、いわば空想することによって、喜びを得られるからであること、
たとえ恐ろしい未来を想像する場合であっても、実際にその出来事が起きたときに痛みを軽減できるから、などが挙げられています。
しかしこれらが未来について考える最大の理由ではありません。
私達が未来について考える最大の理由は、これから味わう経験をコントロールするためなのです。
起こりうる未来を考えることで、
- これをすればよい結果が得られる
- こんなことをすれば悪い結果で苦しむ
と先読みし、これから経験する幸・不幸をコントロールしようとしているのですね。
さらに、未来をコントロールしなければならない意外な正答として、コントロールすること自体が心地よいから、ともいわれています
さまざまな研究から、状況をコントロールしているという感覚は、幸福感や健康状態によい影響を与えることがわかっています。
また、意図していなかった研究により、突然、コントロールしているという感覚を失ってしまうと、はじめからコントロール感覚を持っていない場合よりも悪い事態*を招くことも明らかになりました。
*実験では、高いコントロール感覚を得ていた老人ホームの入居者が、コントロール感覚をなくしたことで死亡率が高まったとわかりました
この意外な正答に対して、なぜ未来をコントロールしなければならないのかという問いへの、意外な誤答もあるといわれています。
未来をコントロールしたい理由として明白なのが、(先でも少し触れました)これからを想像することで少しでもマシな未来を選べるようにするため、つらい出来事を避けるためですね。
ところが私達は、明るい未来を想像しているにもかかわらず、実際に幸せになれていないことが多いのです。
例えて言えば、船の舵をとるのは、少しでもいいところに行き着くためですね。
しかし私達は、自らが舵をとっているにもかかわらず、行きたいところにたどり着けずに後悔をしているのです。
これを意外な“誤答”といわれています。
未来を想像しながら、行きたいところにたどり着けないのは、想像した未来と実体験とが乖離していること(“先見の錯覚”を起こしていること)にあるからです。
その先見の錯覚には3種類ある、ともいわれています。
その錯覚とはどのような錯覚なのか、なぜそれらの錯覚を改善することが難しいかが『明日の幸せを科学する』のなかで詳しく解説されています。
前回の詳細はこちら

今回から、私達が想像する「幸せな未来」の幸せとは、そもそもどんなものなのかをお話ししていきます。
「幸せ」にも3種類ある?「幸せ」という言葉が指す意味とは
「幸せ」という言葉があらわすものとは-幸せの分類
私達が「幸せな未来」といっている「幸せ」とは、そもそもどんなものなのでしょうか。
私の望む「幸せ」がどんなものかが曖昧なままでは、幸せな未来のための選択をしようと思っても、その選択が適切かどうかわかりませんね。
これついてギルバート教授は、
「幸せ」とは、われわれことばの作り手が、なんであれ好ましい物事を表すのに使える便利な単語にほかならないからだ。
問題は、このたった一つの単語が多種多様な物事を表している現状に、だれもが満足しているところだ。
といわれています。
「幸せ」という単語は多種多様な物事に使われていて、かつ、それを誰も疑問に思わない。それがどんな状態を表しているのかが曖昧な理解で済ませられている、と指摘されているのですね。
これでは、幸せとはどのようなものなのか、本質的に知ることができません。
この「幸せ」という言葉が何を指すかについて、ギルバート教授は、「少なくとも3つの関連することがらを表すのに使われる」といわれています。
そのことがらは、
- 感情の幸せ
- 道徳の幸せ
- 判断の幸せ
と呼ばれています。
①感情の幸せ
感情の幸せは、3つのうち、最も基本的な幸せです。基本的であるがゆえに定義しようとすれば言葉に詰まってしまう、といわれています。
感情の幸せとは、気持ち・経験・主観的な心理状態の表現であり、物質界の具体的な何かを指し示すものではありません。
たとえば、
- 生まれて間もない子供の初めての笑顔を見たとき
- 昇進の通知を受け取ったとき
- 道に迷った観光客に道案内をしたあと、お礼を言われたとき
- 高級なチョコレートを舌にのせて、ゆっくりと味わうとき
- 学生のころ大好きだったが、何年も聞いていなかった歌を耳にしたとき
- 難病が完治したとき
に共通して起こる気持ちが「感情的な幸せ」ですね。
昇進の通知を受け取った | 感謝の手紙をもらった | 大好きなお菓子を味わう |
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これは「主観的な心理状態」といわれるように、どんなときに感情的な幸せを感じるかは人それぞれです。
また、同じような幸せを感じる経験であっても、経験ごとに生じる気持ちはまったく同じではなく、異なりますね。
しかし共通する何かはあるでしょう。
子供の笑顔を見たときと、昇進の通知を受け取ったとき、大好きなチョコレートを味わっているときに起きる気持ちは異なりますが、どの経験も同じ種類の感情を味わうものとして扱うことができますね。
どのケースも、この世界の何かを触れ合うことで、ほぼ似たようなパターンの神経活動が生じるのだから、それぞれの経験に共通する何かがあるのは当然だろう。
とギルバート教授は指摘されています。
ゆえに、この「感情的な幸せ」は 暗黙の了解で通じる気持ちといえるのですね。
主観的な経験から生じる気持ちであるので、それがどんな気持ちかを精密に伝えることは不可能であるものの(哲学者はこのことを「還元不能」という言葉を使って説明するそうです)、
同じ時代に生きている人間で、文化的な背景にも大きな相違がなければ、上記の例から生じる気持ちがどの気持ちのことを言っているかは、ある程度 正確に理解することができるでしょう。
感情の幸せは経験の1つであるため、前例やほかの経験との関連からおおまかに定義するしかない、ともいわれています。
言葉の定義は難しい。しかし現実のものであることには疑いの余地がない
このように感情の幸せは、言葉で定義しようにも還元不能であります。
しかしそれが現実のもので、大切なものであることには疑いの余地がありませんね。
私達は常に幸せになりたいと思い、幸せを感じるべく努力をし続けています。
喜びではなく悲しみ、満足より不満、快楽よりも苦痛を好んでいる人や集団はありませんよね。
いっとき幸せをあきらめるようなことはあるかもしれません。
たとえば、
- 食べるかわりにダイエットをする
- 眠るかわりに残業をする
などです。
しかしこれは苦痛を求めているのではなく、あくまで未来の幸せを増やすためにしている行為です。
人は何を求めて生きているのか、人生の目的とは何かについて、心理学者も哲学者も、それは幸せを求めてのことであると明言しています。
精神分析療法で知られるジークムント・フロイトはこう語っています。
人の行動からわかる人生の目的と意図は何か。人は人生に何を求め、何を成しとげようとしているのか。
答えは明らかだ。
人は幸せを求めて努力する。人の望みは、幸せになり、幸せのままでいることだ。この努力には、正と負の二方向がある。一方は苦痛や不快がない方向を目指し、もう一方は強い快感を経験する方向を目指す。
フロイトよりも前には、哲学者であり数学者だったブレーズ・パスカルがこのように記しています。
すべての人は幸せを求める。例外はない。用いる手段がどれほどちがっていても、みなこの目標に向かっている。
戦争へ行く者の理由も避ける者の理由も、同じ願望に異なる視点が加わっただけである。
この目的のためでなければ、意志は一歩も足を踏みださない。
これが、あらゆる人のあらゆる行為の動機であり、みずから首をくくるような場合でさえあてはまる。
②道徳の幸せ
先の章で見ましたように、あらゆる世紀のあらゆる思想家が、私達は感情の幸せを求めていると認識していることをお話ししました。
それであれば、「幸せ」とは何かという疑問の答えは1つしかないように思えますね。
しかしこれに異論を唱える人もいます。
それは、
「人々が思い浮かべる幸せ(=感情の幸せ)は低俗で安っぽい。意義ある人生の基盤にはなりえない」
というものです。
感情の幸せが得られたとしても、それは安っぽく、価値の低いもので、それは人生の目的といえるほどの幸福ではない(もっと高尚な幸福がある)、ということですね。
哲学者のジョン・スチュアート・ミルは、このことを
満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがいい。
満足したおろか者であるより、不満足なソクラテスであるほうがいい。
と語っています。
哲学者のロバート・ノージックは、架空の仮想現実装置を使って、この信念(感情の幸せは価値が低く、本当に求めるべきものではない、ということ)を説明しようとしました。
その仮想現実装置とは、それがあれば誰でも思い通りの経験ができ、自分がその装置につながっていることも都合よく忘れることができる、というものです。
そんな装置があれば、あなたはそれにつながっていたいと思うでしょうか。
ノージックの結論は、以後の人生をずっと装置につながって過ごしてもいいと思う人間はいない、というものでした。
このような装置で経験した幸せは 本当の幸せとは呼ぶべきではない、という考えがあるのですね。
特別な方法でしか生じない特別な快感(=本当の幸福)がある、という主張
仮にあなたが、たんなる「感情」以上の実りのある重要な目的(=高尚な幸せ)があるとし、それがなければ人生は悲劇となる、という考えを持っていたとします。
しかし周りを見るたび、人間はひたすら感情の幸せを求めて日々を過ごしていることに気づかされます。
そうなればどう結論づけるでしょうか。
「幸せ」とは、ただの快感を指すのではなく、特別な方法でしか生じない特別な快感を指しているのだと結論づけたくなるのですね。
たとえばとして、道徳をわきまえ、深奥をきわめ、豊かに有意義に、動物とは違う人生を生きることで生じることこそ快感であり、それが本当の「幸せ」だ、と言うのです。
古代ギリシアには、このタイプの幸せを指す言葉として「エウダイモニア」があったそうです。
これは文字通りに訳すと「善き魂」となるそうですが、もっとわかりやすくいえば「人間の繁栄」や「善く生きた人生」といわれています。
では、道徳をわきまえることで得られるとされる幸せがあるとすれば、何をもって「徳」とするか。それが個々の哲学者が取り組むべき問題となります。
たとえば、古代アテナイの立法家 ソロンは、「人が幸せかどうかは、その人が人生を終えるまでわからない」と指摘しています。
幸せとは「自己の潜在能力を十分に発揮して生きた結果である」こと、ゆえに最終的にどう終着するのかを見ないうちに判定はできない、ということですね。
道徳の幸せは 幸せの「原因」にはなり得るが、「幸せ」そのものではない
哲学者は、幸せを徳で定義しなければならない、という思いに駆られてきました。その種の幸せこそ、人間が求めるべきものだと考えたからですね。
しかし、徳のある人生を送ることが幸せをもたらすとしても、それは「原因」であって、「幸せ」そのものではありませんね。
哲学者は、「徳をわきまえること、徳のある人生」=「幸せ」と定義してきましたが、それは「原因」と「結果」をごちゃまぜにしており、「幸せ」とは何かを明確に論じていはいないのです。
「幸せ」は、経験を表すのに一般的に使われる単語であって、それをもたらす行為のことではありません。
例として挙げられているのが
「スーは昏睡状態にあることが幸せだった」
というものです。
この文は意味をなしません。スーが昏睡状態で意識がないなら、それは幸せな状態とはいえないでしょう。
それまでにどれほどの善行を積んでいたとしても、いまが「幸せ」とは決していえませんね。
幸せは気持ちを表し、徳は行動を指します。
徳のある行動が幸せをもたらすことはありますが、いつもとは限りません。
「徳をわきまえた人生」=「幸せ」という定義は、原因と結果の関係からも誤りであり、さらに因果関係が常に成り立つともいえないのですね。
③判断の幸せ
最後、3つ目の幸せが「判断の幸せ」です。
心理学者は、先でお話しした「感情の幸せ」と、この「判断の幸せ」とをまぜて「幸せ」という言葉を使っていることが度々ある、と指摘されています。
「まあだいたいのところ、これまでの人生には満足している」と聞けば、心理学者はたいてい、この人物が「幸せ」であると捉えます。
問題は、ものごとの価値判断を表現するのに「幸せ」という言葉を使う場合があることです。
たとえばとして、
「うちのフロントガラスを割った悪ガキが捕まったことについては満足している」という台詞です。
これは、喜びや快感を抱いている「感情的な幸せ」とは程遠い状況ですね。怒りや悲しみを感じていることでしょう。
実際の感情は抜きにして、自分の価値判断からみて「満足している」と語っているのですね。
このような「判断の幸せ」は、「~なら」や「~については」がついているかで区別することができます。
たとえば、
「君が幸せなら、ぼくも幸せだよ」
という場合、ぼくが「感情的な幸せ」を感じているとは限りません。
自分はいま不幸な状態であるが、「君が幸せ」であることは、僕の価値判断からみて喜ばしいこと という意味で「ぼくも幸せだよ」といわれているのですね。
「〇〇については幸せだ」とか、「〇〇なら幸せだ」という表現は、〇〇が喜びのもとであるはずなのに、現時点ではどうしてもそう思えない、と述べているだけなのです。
以上が、「幸せ」という言葉があらわす3種類のことがらでした。
次回は、このなかの「感情の幸せ」に焦点を当てて、「幸せ」とはどのような状態であるかについて、さらに詳しくご紹介していきます。
まとめ
- 「幸せ」という言葉は多種多様な物事に使われ、かつ、それがどんな状態を指しているか曖昧な理解で済ませられている、といわれています。それでは幸せについて本質的に知ることはできません
- ギルバート教授は、幸せという言葉は、以下の3つの関連することがらを表すのに使われている、と指摘されています
- 感情の幸せ
- 道徳の幸せ
- 判断の幸せ
- 感情の幸せは、最も基本的な幸せであり、気持ち・経験・主観的な心理状態の表現のことです。どんなときに感情的な幸せを感じるかは人それぞれであり、生じる気持ちも同じではなく、それがどんなものかを過不足なく説明することはできません
-しかし共通するものはあり、それがどんな状態なのかは暗黙の了解で伝わります - 感情的な幸せに対して、道徳をきわめることによって得られるとされる快感が、道徳の幸せです。他の動物とは異なる特別な快感と考えられています。何をもって「徳」するかが、哲学者によって取り組まれてきました
-けれど、この道徳の幸せ(徳のある人生を送ること)はあくまで幸せの「原因」となり得るもので、「幸せ」そのものではないと指摘されています - 感情を抜きにして、ものごとの価値表現を表すときに「幸せ」という言葉が使われることもあります。それが判断の幸せです。「~なら」「~については」がついているかどうかで区別できます
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